懐古趣味と言う。「昔は良かった」「あの頃は夢があった」、もう一度学生の頃に戻れたら、と、誰もが一度は思う事があるかも知れません。
それでも、時は無常に過ぎ去っていきます。人生とはそんなもんだと思います。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖と又かくのごとし。」から始まる方丈記を書き残した、鴨長明の時代であっても、世の儚さと、時の無常は、現在も変わらないものと思います。
このブログで何度か、「近頃の若者は」という言葉が、清少納言の時代から言われていると書いていますが、年老いた者が、昔は云々と言う言葉も、懐古趣味に他ならないと思っています。
この感情は、事実だと思います。二つの理由があると思っています。自分が若い頃には、見えなかったものが見えるようになる事。その歳になって見ないと分からない事も現実にはある事が、分かって来るのです。ですから、今頃になって、両親の行動が分かって来て、悪かったな、と、理解できなかった自分を情けなく思ったりする事もあります。若い頃の未成熟さを身をもって知ることになる年代もあるのです。
もう一つの理由は、懐古趣味です。ようするに歳を取るごとに、耄碌していくのも自然なのかと、近頃は思っています。
現在、終活中とは言え、澤部滋先生(日本空手道修武会会長・空手界の重鎮)から見ると、「若いなぁ!」ですから、もう少しの間、懐古趣味にならないようにしたいと、思っています。
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今回の孔子の言葉が、懐古趣味なのかは、分かりません。『論語』を読んで見る事にします。
●白文
『子曰、先進於礼楽野人也、後進於礼楽君子也、如用之、則吾従先進』。
●読み下し文
『子曰く、先進の礼楽に於けるや野人なり、後進の礼楽に於けるや君子なり。如しこれを用うれば、則ち吾は先進に従わん』。【先進篇11-1】
この文章は、内容を要約した方が理解し易いでしょう。私が要約した内容は次の通りです。
「昔の弟子は礼楽に関しては、荒っぽく素朴であった。現在の人は実に正確に上品に礼楽を表現する。しかし私が選ぶとしたら昔の方を取る」
まさに、私が現在の空手を見るのと同じです。ですから、懐古趣味と言われても、反論する気持ちはありません。
ただ、理由はあります。昔の空手の方が、私が求めている方向を向いていると、思うからです。
前に「美しくなったから使いやすくなったのではない。使いやすくなったから美しくなった」という、刀匠、河内國平氏の言葉を紹介しました。その美しさを求めるあまり、本分である機能から外れてしまっているのではないかと思うのです。
空手で言えば、空手の型や組手は、美しく見せるためにあるのではないという事です。しかし、型を競技するとなると、どこを競うのでしょう。型の三要素と言われる、技の緩急・力の強弱・体の伸縮。これも流儀により違います、技法の変化・気息の呑吐・重心の移動と言う事もあります。これも三つではなく五つの場合もあるでしょう。
私はこの段階で、すでに、型の目的を違えているのだと思っています。この大切な要素と言われるものは、あくまでも稽古の為に注意する点です。見せるために強調すべき点ではないのです。
もしこれが強調されては、武術として見せてはいけない、居着きになり、隙を見せる事になってしまいます。ですから、型を競技すると、武術ではなく武踊(舞踊)になってしまいます。
稽古によって、型の要素をできるだけ、表面化しない事が大切であると思っています。できれば、いつ突き出したのか、いつ蹴り出したのか、いつ受け始め、いつ次の動作に移ったのか、分からないような流れのあるものに、仕上げたいと思っています。ですから、人が見ても評価のしようがないのです。
組手にしても、競技化される時に一番気を使うのは、安全性だと思います。ついで、判定しやすいルールです。この段階ですでに、組手の目的を逸脱しなければなりません。
空手に似た闘技は、世界中にあります。しかし、私が魅力を感じたのは、「一撃必殺」と言う言葉です。言葉に異論のある人がいると思いますが、これが空手なんです。ですから、拳を鍛え、身体を鍛え、全身を凶器と化すのです。
私は何も、凶暴な闘技を推奨している分けではありません。目的は、 髓心とはに記載しましたが、懸命な心になるための、空手道でありたいと思っています。
孔子が言う『詩・楽・礼』に相当するのが、私の場合は『空手道』と言う武道なのです。
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孔子は、昔を懐かしんで『則吾従先進』と素朴な『詩・楽・礼』を選ぶと言ったのでは無いと、思っています。孔子にとって『詩・楽・礼』は、あくまでも『徳』や『君子』になるための手段だと、言いたいのだと思います。私が、『空手道』を『髓心』に出会うための手段と思っているように。
孔子は後期の弟子に対して、警鐘を鳴らしたのだと思います。『詩・楽・礼』の専門家になるための修行ではなく、『詩・楽・礼』を手段として『君子』や『徳』を備えた、人格者になるのが目的であると。そしてその人格者の行う『徳治政治』が、孔子の理想とする主義であったと、理解しています。
道は、目的に向かうものであって、目的から逸脱して違う方向に行くことではありません。ですから、道は発展や発達ではなく、探求すべきなのです。
もちろん、一人の人生で到達することの出来ない事は、百も承知の上で、道を歩きます。その道が人類にとって、幸せを引き寄せる力となってくれると、信じています。最澄の言う『一燈照隅 万燈照国』のように。
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.