今日の一文字は『情』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第三段』を読んで見て、感じた文字です。
原文
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男女
恋歌
相変わらず、猛暑が続いています。少しは、涼しくならないですかね。今日も一日元気で過ごしましょう。
徒然草 第三段 〔原文〕
よろづにいみじくとも、色好まざらん男(おのこ)は、いとさうざうしく、玉の巵(さかづき)の当(そこ)なき心地ぞすべき。
露霜にしほたれて、所定めずまどひ歩き、親のいさめ、世のそしりをつつむに心の暇なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。
さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。
『現代文』
まず、現代文にしてみましょう。
『たとえ万事に優れているとしても、色恋が分からない男は、何か物足りない、立派な杯の底が抜てけているようなものである。
露や霜でびしょびしょになり、居場所も定まらずに迷い歩き、親が諫めても、世の中から罵倒されても意に介さず、妄想に憑りつかれ、だからといってもてるかというと、独り寝がちに眠りにもつけず、誠にこっけいである。
そうはいっても、ひたすら色恋にうつつをぬかしているのではなく、女性から見れば、おいそれと攻略できないように見えるのが望ましい。』
男女
人間は、男と女しかいませんから、当然男性が女性を好み、女性が男性を想う。その歴史は遠い昔から繰り返されてきました。
最近は、Xジェンダーと言われる男女どちらとも言えない人々がいる事が分かってきて、市民権を得る時代になってきましたが、戦国時代でも、このような事は、あったようです。
しかし、百人一首の半分に近い和歌は、恋歌であると言いますし、男女の人を思う気持ちが、文学となり、果ては戦争の発端になることもしばしばあると聞きます。
現代でも、若者の間で人気のある歌は分かりませんが、昭和の歌謡曲の多くは、人を想い悩む歌が多かったと思っています。それだけ、共感できる人が多いと言う事でしょう。もしくは、憧れなのかも知れません。
空手などを趣味としていると、無粋と思われがちですが、意外とロマンチストな人もいますし、逆に色恋に長けている人に情がない人もいます。
兼好いわく、攻略できそうにない男こそ望ましいと言われると、何だか、戦略的な駆け引きに見えて、興ざめしてしまいます。
趣味でも、恋愛でも、一生懸命の方が、私には望ましいと思ってしまいます。
男と女の駆け引きに縁がありませんが、もし恋をするなら、そんな駆け引きはできないでしょう。その歳で、その頭で、恋を!?、考えるな、って声がするようですが。
『恋歌』
ちなみに、私は百人一首はまだ研究していませんが、昭和の歌謡曲にも、心惹かれるフレーズがあります。
石原裕次郎さんの「北の旅人」という歌を知っていますか。
歌詞の三番に、「空でちぎれるあの汽笛さえ、泣いて別れるさいはて港」というのがあります。
言葉の選び方が凄いと思っています。
惜別の歌も心に残っています。中学生の時によく歌っていました。
「遠き別れに たえかねて この高殿に 登るかな 悲しむなかれ 我が友よ 旅の衣を ととのえよ
別れといえば 昔より この人の世の 常なるを 流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな
君がさやけき 目のいろも 君くれないの くちびるも 君がみどりの 黒髪も またいつか見ん この別れ」
私が覚えているのは、この三番までですが、四番まであるようです。
作詞が島崎藤村となっています。この歌を歌うと、中学生の頃にふと戻ります。
その頃は、小林旭さんが歌っていました。高音でなんとも哀愁のある歌声だったように記憶しています。
言葉によって人の心を動かし、心に残る言葉を生み出す事が文学かも知れません。 まだまだ、文学は分かりませんが、そんな気がしています。
誰もが、こんな思い出の歌を持っているのかも知れません。
兼好が言うように、どんなに才能に長け頭が良くても、恋慕の情が解らないのは、まるで底の抜けた盃のようなのかも知れません。
人である以上、人を想い人に恋し、時には狂おしいまでの思いも経験した方が、人間としての幅が増すのかも知れません。