文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【12】

スポンサーリンク

 今日の一文字は『閑』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第十一段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 閑散 一点

 朝からいいお天気です。盆踊りの提灯もぶら下がりました。今週末から2日ですかね。

 それにしても、ボクシングの世界も大変ですね。空手界は、随分昔と変わったように見えますが、どの世界でも利益誘導があるようです。

 若い人が運営するようになればと思いますが、歳とは関係なく、運営する人の人柄が大切なように思います。

 選手の為と思っても、個人が勝手に価値観を押し付けてはいけません。民主主義の世の中ですから、民主的に事を運べば良いのではないでしょうか。ルール位は守りなさいよ、と言いたいですね。
 
 今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第十一段 〔原文〕

神無月のころ来栖野くるすのといふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道をふみわけて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋かけいのしづくならでは、つゆおとなふものなし。

閼伽棚あかだなに菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子こうじの木の、枝もたわわになりたるがまはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。

 

 
スポンサーリンク

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。この現代文は正式な文法上の読み下しではありません。あしからず。

 『神無月(陰暦十月)の頃、来栖野という所を過ぎてある山里に訪ねる人があったので、はるかに続く苔の細道を踏み分けていくと、頼りなさげに佇む庵があった。木の葉に埋もれたかけひしずくのほかには、少しも音を立てるものは無い。

仏に手向ける水や器を置く棚に、菊の花びら・紅葉などが折り重なって散らかっているという事は、こんなに閑散としていても、住む人がいるからだろう。

こんな様子でよく暮らしていけるものだと感心したが、向こうの庭に、大きなミカンの木が、枝もしなるほど実がなっていて、木のまわりを厳重に囲いをいるのが、少し興ざめして、この木さえなかったらと思ったものだ。』

 

『閑散』

 騒がしいより静かな方を、私も好みますが、それは時と場合によります。

 現在のような都会の喧騒を見たら、兼好は何と言うのでしょうか。

 それでも、閑静な住宅街では、「シーン」と音が聞こえるような静けさを感じる事があります。特にスキー場の夜とか朝早くはそんな音が聞こえるようです。

 しかし、ここの住人は、ミカンの木を引き合いに出すまでもなく、兼好には興ざめして欲しいと思った事があります。

 閼伽棚あかだな(供物などを供えるための棚)があって、菊の花や紅葉が供えられた形跡を見て、人が住んでいると察したのなら、「もっと綺麗に掃除しておきなさい。」と思うべきでしょう。少なくとも法師ですから。

 こういう住人ですから、信仰心も感じられず、単に世捨て人かも知れません。もっと悪く言うとしたら、世の中に溶け込む事の出来ない変わり者かもしれません。

 ですから、自分の財産を頑なに守ろうとしているのだと思います。

 この事が悪いと言う分けでもなく、静かな佇まいを見て、早計に立派な人だと思い込んだ、兼好に問題があると思います。

 兼好は、30歳前後で出家していますから、この「徒然草」を見ていると、賢い人とは思いますが、世慣れていないのかも知れません。

 現在のインターネットの世界のように、魑魅魍魎ちみもうりょうが住む世界では、兼好は真っ先に騙されてしまうのかも知れません。

 兼好は、自分がいた時代から、650年経った世の中が、こんな世知辛せちがらい世の中になっていると、想像できたのでしょうか。 

 

『一点』

 兼好は、閑静な場所で住んでいる住人を、初めは高く評価していたのかも知れません。

 しかし、ミカンの木と、それを取り巻く頑丈な囲いを見た途端、それまでの評価が消えてなくなっています。

 たった一度、たった一回のミスで、それまでの信頼を無くしてしまう事は、現在でも実際に起こり得る事だと思います。これは、このブログでも記載しました。[「五輪書」から学ぶ Part-28【水之巻】流水の打と云事]

 そう言えば、大学で応力集中と言う事を学んだ記憶があります。ほんの少しの穴に力が集中して全体を破壊すると言ったものです。確か材料力学だったと思います。50年前の事ですから記憶が定かではありませんが、「少しの傷が大きな材料を破壊する」と言う印象が残っています。構造物でも、一点が及ぼす影響は全体に及ぼすと言う事だと思っています。

 一点と言えば「一点豪華主義」と言うのがあります。気持ちは分からない分けではありませんが、勧められるべき方法ではありません。人から見ると滑稽に見える事もあります。

 自分の経済力に合わせると、身に付ける物の中で、時計だけしか豪華に出来ないとか、靴だけは、足元を見られないように、とか、理由は様々でしょうが、バランスが大切だと思います。

 もし、良い物を身に付けたいのなら、それとなく、さりげなく、が基本です。

 でなければ、成金趣味と思われます。それで世の中を通そうと思うなら、それも生き方ですが、上には上がいます。反って質素なもので統一しておいた方が好感が持たれるかも知れません。

 私の経験では、ブランド品や高価な物には、世界的な高い評価がある事で成り立っていますので、一つや二つは持っていても、物を選ぶときの基準にする事が出来ると思います。

 要するに、良い物を良いと評価できる目を養う事です。

 センスと言われますが、初めからセンスがある人もいますが、私などはセンスの欠片もないと思っています。ですから、書道のように、お手本を見て、古典と言われる物を見て、それを臨書している間に、良い物が身に付いてくると思っています。

 例えば、デザインなどは、確かに勉強すると、構図であるとか、配置であるとか、シンメトリーとか、黄金比とか色々な事を勉強します。しかし、それは、いわゆる講釈であって、実際には評論家になってしまい、自分ではデザインを創作する実力は身に付かないと思っています。

 本当に仕事に役立つセンスを磨くとすれば、良い物を観る事だと思っています。

 雑誌でも一流の物を開くと、一ページにその作った人のノウハウがちりばめられています。

 いつも一流の物を身近に置いて、眺めるだけでも、知らない間に価値観が身について行くように思います。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です