文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【55】

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 今日の一文字は『趣向』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第五十四段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 趣向

 
 昨日は、あまりにも筆が割れるので、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、筆を購入する為、梅田に行きました。

 と、言うより、孫の誕生日のお祝いを買うためですけど。ついでに。

 で、妻に、出かける時に、絶対今日は筆を買うように言って。と念を押しておきました。と言うのは、私は優柔不断で、何かを買いに行っても、まず一回目で購入して帰ることはないのです。

 例えばセーターが欲しいと思ったとします。そして買いに行きますが、別にその商品が気に入らない分けではないのですが、何か、無くても良いか、とか、もったいない、とか、ぐずぐずして、決断できないで帰って来るのです。

 昨日は、絶対に筆を買って帰ると決心して、家を出る事にしたのです。

 インターネットで投稿者のコメントを見ると、筆が割れないようにするには、どうすれば良いか、と言う質問に対する回答が、一般的な答えなのですが、よく洗う事でした。

 しかし、その後、回答者が「数万円するものであれば、割れませんよ。」と、いとも簡単に言われているのを見て、質問者が、「私が使っているのは、高い筆だと思っていましたが、5,000円でした。学生ですから高価なものは手が出ません」と言うような内容でした。

 で、私はと言うと、持っているのは、多分40年位前に購入した筆が3本と、義理の姉が商品として売っていた物を、店をたたむからと、持ってきてくれた筆が6本ほどで、文房具屋さんですから、高いと言っても学生相手ですから、一番高い物でも、値札を見ると8,000円でした。

 貰った時には、随分高価だと思っていました。

 全部試して見ましたが、やっぱり割れてしまいます。どうも、インターネットで調べると、筆にも寿命があるようです。

 さて、梅田の丹青堂、この店は江戸時代から商いが始まり、明治になってから現在の屋号にしたという、由緒のあるお店で、ここで聞けば良い筆が買えると思いました。心斎橋が本店で、ここにも立ち寄った事があります。その時は、小筆を購入したのですが、それがもう40年も前の事です。価格は2,000円と、まだ値札が付いたまま使っています。

 ようやく、丹青道について、筆が割れる事を説明して、半切に和歌を書くのに適した筆を選んでもらいました。名前が「良寛」と書いてあるものを薦められ、説明が上手いお爺さん・・・、いや私より若いかも知れませんが、その筆を買う事にしました。15,660円・・・。

 その時に、筆の洗い方も教えてもらいました。インターネットの情報とは、全く違い、余り洗いすぎない方が良いとの事でした。

 これで、今持っている筆が、割れるようになったのかも知れません。

 帰ってから、筆を注意深く下ろし、書いて見ました。

 初めの3枚位は、失敗です。やっぱり筆が割れるのです。自分の書き方が悪いと思い、また4枚目を書きました。すると、筆が割れなくなってきました。

 気を良くして、10枚位書き、書き始めてから3時間位経ってから、ようやく、一応仕上げる事ができました。後は、添削がどうなるかですが、人事を尽くして天命を待ちましょう。

 今朝、投函してきました。

 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第五十四段 〔原文〕

 御室おむろに、いみじきちごのありけるを、いかで誘ひ出して遊ばむとたくむ法師どもありて、能あるあそび法師どもなど語らひて、風流の破籠わりごやうのもの、ねんごろに營み出でて、箱風情のものに認め入れて、ならびの岡の便りよき所にうづみ置きて、紅葉ちらしかけなど、思ひよらぬさまにして、御所へまゐりて、ちごをそゝのかし出でにけり。

 うれしく思ひて、こゝかしこ遊びめぐりて、ありつる苔の筵に竝みゐて、「いたうこそ困じにたれ。あはれ紅葉をかむ人もがな。しるしあらん僧たち、いのり試みられよ」などいひしろひて、埋みつる木のもとに向きて、數珠じゅずおしすり、印ことごとしく結びいでなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども無かりけり。うづみけるを人の見おきて、御所へ參りたる間に盜めるなりけり。法師ども言の葉なくて、聞きにくくいさかひ腹だちて歸りにけり。

 あまりに興あらむとすることは、必ずあいなきものなり。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『御室おむろ(仁和寺の別名)に、素晴らしいちごがいた。なんとか誘い出して遊ぼうと企む法師達がいて、芸達者な法師と話し合い、

  仁和寺にかわいらしいお稚児さんがいた。なんとか誘い出して遊ぼうと企てた僧侶たちが、芸達者な僧侶たちと話し合って、お洒落な容器を一生懸命こしらえて箱に収めて、双の岡(ならびのおか・京都市右京区の丘陵、双ヶ岡)の適切な場所に埋めておいて、上から紅葉を散らして見つからないようにしてから寺に戻って稚児を誘いだした。

  僧侶たちは嬉しい気持ちであちらこちらで遊びまわり、苔が生えた例の場所に座っては「疲れたねえ」「うん、この紅葉で焚き火をする人がいればいいのになあ」「霊験あらたかなお坊さんたち、試しに祈ってみては?」
  とまあ、言い合って、箱を埋めておいた木の下に向かい、数珠をすり合わせ、手で形をつくり、おおげさに振る舞っては紅葉を掻き分けたが、目当てのものは全く見つからない。場所を間違えたかと、掘らない場所もないほどに山を漁ったけれど、やっぱり無かった。

  箱を埋めるところを人が見ていて、僧侶たちが寺に戻っている間に盗んだのである。僧侶たちは何と言っていいやらわからず、聞くに堪えない口論までしてカンカンになって寺へ戻って行ったのだそうだ。
  あまりに趣向を凝らしすぎると、必ず良くない結果になるということである。 』
【参照】
ちご・稚児:寺で、出家しない姿のままで勉学や行儀見習いをし、また、雑用に当たったりする少年。
(出典:学研全訳古語辞典 学研.)

 

 

 

 

『趣向』

 仁和寺にんなじは、京都にあるのですが、大阪の寝屋川にも仁和寺と言う交差点があります。地名も大阪府寝屋川市仁和寺町になっているのですが、どうも昔は京都の仁和寺にんなじの所領だったようです。神社もありますが、仁和寺氏神社といいます。読み方も「にわじうじじんじゃ」と読むそうです。

 なぜ、寺院の所領地に仁和寺氏神社と名前が付いた神社となったかは、分かりませんが、所領地と言う事で地名を付けただけかも知れません。

 また仁和寺にんなじの法師の失敗談と言うのか、悪口と言えばよいのか、遠回りに批判しているように聞こえます。

 仁和寺にんなじは由緒正しいお寺で、真言宗御室派総本山の仏教寺院として、世界遺産にも登録されているほどです。

 また、仁和寺にんなじは平安時代の初期に光孝天皇の勅願で建立され、11世紀には、皇族の子弟が入る寺院として名が通っていたようです。

 であれば、吉田兼好は表立って批判する事も出来ず、徒然草に記載する事で、寺院の在り方に警鐘をならしたのかも知れません。

 ですから、「いみじきちごのありける」も立派な皇族の子息と、読み替える事も出来ます。しかし、法師の方も皇族の子息でしょうから、わがまま放題だった時期があったのかも知れません。

 それにしても、「いみじきちご」を「かわいい稚児」と訳しているものもありますが、ちょっと、趣が違うように考えてしまうので、「素晴らしいちご」にしました。

 そういう背景を考えると、最後の言葉に、「あまりに興あらむとすることは、必ずあいなきものなり。」、すなわち「あまりに趣向を凝らしすぎると、必ず良くない結果になるということである。」と「趣向」にスポットあてて、問題をオブラートで包んだ表現にしていますが、本心は違ったかも知れません。

 本心は、近頃の仁和寺にんなじは、遊ぶことに趣向をこらし、僧侶としての修行や立ち振る舞いを、ないがしろにしていて、 同じ法師として、恥ずかしい思いがする。とでも、言いたいように、読んでしまいます。

 それにしても、相手がちごであっても、あまりにも無邪気な遊びに興じたものです。

 趣向を凝らし過ぎているようには、思えません。当時の遊びであれば、もっと子供向けにしても、高尚なものがあったと思われます。

 例えば蹴鞠けまりなどは、今のサッカーのようなものですから、十分子供も楽しめたとおもうのですが、宝探しとは・・・・・。

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