文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【60】

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 今日の文字は『棄』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第五十九段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
 今日もいい天気ですが、昼頃には30度位になる予報が出ています。寒暖差について行けてますか。

 昨日は、4日ほど前に、小麦粉で作った糊で古い筆を固めたものを、新品の筆のように下ろして使ってみました。

 なかなか調子が良いようです。まだ、半切は書いていませんが、もしかしたら、筆が割れずに書けるかも知れません。

 まだ試作段階ですから、また、結果は後日に報告します。

 小麦粉で作った糊ですが、本当の「ふのり」は海藻でつくるらしいのですが、無いので、小麦粉で作っている人もいるみたいなので、作ってみました。

 作り方は、至って簡単です。小麦を大さじ2杯くらいに、水を100ccぐらい、どちらも適当です。これを鍋に入れて、煮るだけです。少しもちっとしてきたら出来上がり。これを大さじに一杯くらい取って、皿に入れ、水を入れて溶きます。サラサラくらいで良かったです。

 そして、綺麗に洗った筆を入れて、筆の付け根まで「のり」が浸透するようにして糊付けは終わりです。この時筆は少し濡れた状態の方がやり易いと思います。

 本当は糸で巻き付けましたが、結果的には、筆の付け根から穂先まで、指で軽く絞るように形を整えても、良いと思います。出来たら、ただ吊るして乾かすだけです。形の整え方のコツですが、買ったばかりの筆を参考にするのが良いと思います。私は買ったばかり筆が無かったので、今回9月13日に購入した「良寛」の筆を下す時に見た記憶をたどって、同じような形になるようにしました。

 コツと言うほどのものではありませんが、気を付けた所は、根本部分が膨らまないようにした事です。

 一日目は、こんな状態で固まるのかと思うほど、ただ濡れた状態から乾いて行くだけに思いましたが、二日目くらいから固くなり、三日目にはカチンカチンになって、買ってきたばかりの筆のようになっていました。

 下ろす時は、気を付けて、穂先を指先で5mm位潰して、後は、水に付けながら指でほぐす方が良いと思います。水につけずに、全て指先で下ろしても良いような書き方も見られますが、私がのりで固めた筆は、水にぬらさないと、ほぐれてくれませんでした。

 今日の「棄」の文字は、この下した筆で書きました。雅号も同じ筆で書いています。穂先が割れていません。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第五十九段 〔原文〕

 大事を思ひたたむ人は、さり難き心にかゝらむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん、行末難なく認め設けて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の盡くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。

 近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ。身を助けむとすれば、恥をも顧みず、たからをも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、遁れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『出家を思い立った人は、離れがたく心残りな気持ちを捨ててしまうべきである。
 「しばらくこの事をやってから」
 「同じ事なら、この事を処理してから」
 「これこれの事は人が嘲う、今後非難されないよう準備してから」
 「数年かかる案件ならともかく、それを待っている必要はない、騒がないように」
 などと思うようでは、止む終えない事が次々重なり、なくなる事も無く、出家できる日が来る事もない。
 大体世間の人を見ると少し出家を考えている程度の人は、こういう考えでチャンスを逃す。
 
 出火した時、「しばらく、待とう」と言うだろうか。助かろうとしたら、恥などと思わず家財をも捨てて逃れるものだ。命は人を待ってはくれない。無常は、水や火より速く、逃れられない。その時に、老いた親や幼い子、主君の恩、人の情け、捨てられないと思ってもそうはいかない。 』

 

 

『棄』

 この段から学ぶべきことは多いと思います。

 しかし、 三段論法の、大前提に問題があれば、次の小前提、結論が間違ってしまう事は、すでにこのブログでも紹介した所です。

 なぜ三段論法を持ち出したかといいますと、この段には、大前提があり、そこから話が始まっているからです。

 その大前提とは、「出家」と言う事ですが、この「出家」をしようとしている人に対しての事であり、「出家」をしようと思っていない人には、全く関係のない話です。ですから「出家」しようと思わない人には、前提が当てはまらないのです。

 しかし、この段を、「出家」をしようと思わない人が無視しても良いかと言うと、読み方によっては、人生に役立つ事が書かれています。

 ここは、出家のお誘いをスルーしながら、役立つ部分だけを解釈して見たいと思います。

 今日の文字に「棄」と書きました。「捨」でも良いのですが、前のブログに書いた文字と重複するのを避けました。

 本当は、ヨーガの修行で言う「行・行・行」と言う言葉の前の部分を繋げたかったのですが、どうも登録商標されていようなので、あえて、使いませんでした。私が知っている言葉とは意味が違いますので。

 で、なにが、「棄」なのでしょうか。「棄」の付く言葉は、ろくな熟語がありません。思いつくものを並べて見ましょう。

  遺棄  ・棄却  ・ 棄権  ・ 唾棄  ・ 廃棄  ・ 放棄  ・自暴自棄、良い意味では使われない言葉です。

 しかし、この棄て去る事で、得る事もあるのです。 

 これは、空手の稽古から得た考え方で、私の空手道の歩み方です。

 また、余計なものを心に残さないと言う意味では莫妄想まくもうぞうと同じですが、少し違うのは、棄て去る前に、しっかり掴み取る事が必要なので、「棄」と言う言葉で表しました。

 基本的な所で言えば、例えば、上段(顔)を攻撃された場合、上に跳ね上げる方法があります。これを上段揚げ受けと言いますが、これが身に付くまで稽古します。力の入れ方、タイミングなどを相手の力量に合わせられるようにするのです。

 しかし、実際には上段(顔)を攻撃してくるとは限りません。ですから、身に付けた事は残して、意識から棄て去らないと、用が足せません。

 この意識から消し去る事で、条件反射と言う、人間に元から備わった機能が働くようになります。

 この稽古を全ての技で、身に付けては、棄て去ります。そして棄て去って初めて自分に役立つのだと言う事を学ぶのです。

 この稽古を通して、世の中で役に立つ方法を見つけるのです。 一旦は没頭して身に付けます。しかし、いつまでも固執する事は、単なる知識として身に付けただけに留まるのと同様だと思っています。

 その身に付けた事が役立つようにしなければ、何のために稽古して来たか意味をなさないのです。

 今度は、棄て去る事に心血を注ぎます。意外と、反射神経でのみ反応するように身に付け方を変えるのは、没頭して技を習得するより、難しいと思っています。

 一つの技でも、持って生まれた反射神経で反応して、身に付けた技が出るとしたら、それが稽古の成果です。

 この段で言われている事は、何かを成そうとする時に、邪魔をする気持ちです。言い換えればや「執着」や「固執」していることから、離れようとする時に「躊躇」すると言い換える事が出来ると思います。

 「しばしこの事果てて」
 「同じくは彼の事沙汰しおきて」
 「しかしかの事、人の嘲りやあらん、行末難なく認め設けて」
 「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」

 原文にある言葉は全て、後ろ髪を惹かれる思いです。

 解釈は、『現代文』にも書きましたが、次の通りに解釈しました。

 「しばらくこの事をやってから」
 「同じ事なら、この事を処理してから」
 「これこれの事は人が嘲う、今後非難されないよう準備してから」
 「数年かかる案件ならともかく、それを待っている必要はない、騒がないように」

 空手の場合は、後ろ髪を惹かれている事、躊躇する事を、「居着き」と言います。則、命を落とす事になります。如何に、棄て去る事が必要か、身を持って体験することになります。

 この段では、「無常」と言う言葉で、死を現わしています。

 私は、実際に死んでから極楽に言っても意味がないと、思っています。それは、信仰心がないからでしょう。

 であれば、生きている間に極楽とは言わないですが、人生を謳歌する事を選びたいと思います。 その為の「棄」です。

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