文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【66】

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 今日の文字は『冠』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第六十五段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
 また台風が変な動きをしています。今はフィリピンの東にありますが、進路を北に向けている模様。台風24号です。今年の台風は逆走したこともありますから、油断は禁物です。注意しましょう。

 最近のニュースを見ていると、何だか、アメリカもバラバラで、中国も変なムード、ソ連も選挙で思わぬ結果、イギリスもEU離脱の問題でヨーロッパも雲行きが怪しくなってきています。さて韓国・北朝鮮はどっちに向いているのでしょう。

 こんな時こそ、日本は野党・与党が揚げ足取りばかりやらないで、一丸となっていないと、国際社会について行けないと思います。

 国際社会と調和する事が大切で、何もリーダーシップをとる必要もありません。どうも、変な所で一番になりたがる日本だと思います。

 国際協調と言うのは、どの国が一番ではなく、どの国も豊かになるための連携をすればどうでしょう。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第六十五段 〔原文〕

 このごろのかぶりは、昔よりは遙かに高くなりたるなり。古代の冠桶を持ちたる人は、はたをつぎて今は用ゐるなり。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『 最近の冠は、以前より遥に高くなっている。昔の冠入れの容器を持っている人は、容器の端を継ぎ足して使う。』

 

 

『冠』

 実は、この段を読んで、最初の感想は、「なんの、こっちゃ」でした。「好きなようにしたら」と、思ってしまいました。

 よく考えてみると、徒然草は、その時代の風俗を現わしている部分がかなりあります。

 しかも、貴族や僧侶と言った人が、どんな格好をして、どんな乗り物に乗り、どんな事を考え、どんな暮らしをしていたのかを、思いつくままに書き綴ったのでしょう。

 だとしたら、これは、鎌倉時代から室町時代に流行ったファッションではないかと、思ったのです。

〔ファッション〕

 ですから、今日は、私がまだ小学生にもなっていない、戦後すぐの昭和の風俗やファッションを、徒然草さながら、そこはかとなく書き綴ってみる事にしました。ただし、記憶の許す限りですが。

【施し】

 小学校に上がるまでは、まだ軍服を着ている人を見る機会もありました。そして戦争で手や足を怪我をした人、あるいは、手足を無くした傷痍軍人と言われる人が、町には結構いて、施しを受けていました。

 大阪の東にある生駒山には、石切さん石切劔箭神社)があり、初詣だけではなく、よく両親とお参りに行っていました。その境内の片隅には、傷痍軍人の、必要なくなったギブスなどが置かれている社殿のような物がありましたが、いつの間にかそれも無くなってしまいました。

 今考えると、お詣りと言うよりも、参道で何かを買ってもらったり、食事をする事だけが、私には目的だったような気がします。

 第二次世界大戦が終わって10年経っていませんから、そんな風景が私が住む地域だけでなく、日本全土にあったのでしょう。

 今では考えられないでしょうが、虚無僧が尺八を吹いているのを、見かける事もありました。

 まるで時代劇のようです。小さなドラム缶のような編み笠を頭から肩まですっぽり被り、袈裟と箱のような物を首からかけて、腰には短刀が差してあったように思うのですが、映画の影響で記憶が書き換えられた可能性もあります。

【売り歩き】

 季節の風物詩と言えるような、物売りも日常の生活に欠かせない物でした。例えば、金魚売りは、「きんぎょ~え、きんぎょ」と節をつけながら売りに来ていました。

 伊勢から、おばちゃんが「黄色いこうこ」を売りに来ていましたが、歩いてきているものと思っていました。「そんなことはないやろ」と突っ込まれそうですが。ちなみに、「こうこ」とは、大根の漬物です。

 「竹や~、さお竹」は、最近まで軽トラックで、スピーカから呼び声をかけながら、回っているのを聞いたことがあります。いまでもあるかも知れません。

 他にも、豆腐屋さんや、べろべろ売り紙芝居と、多彩な移動して売り歩く商売がありました。ちなみに、「べろべろ」と言うのは、大阪弁でしょうか、きな粉をつけた、平べったいわらび餅のような物ですが、もうすこし柔らかかった記憶があります。

 もちろん、紙芝居もよく見ました。

【衣服】

 その当時のファッションは、身近な物しか記憶にありませんが、母は、ほとんど和服でした。普通の生活をする時も和服で、炊事をする時には、白い割烹着かっぽうぎが主流でした。今は、エプロンと言いますが、少し趣が違います。多分割烹着かっぽうぎは、着物用に作られていたからでしょう。

 男性は常はズボンとシャツでしたが、みんな下駄ばきでした。子供も下駄ばきが普通で、小学校に上がってから、ズック靴(運動靴・スニーカー)を履くようになったと思います。

 雪が降ると、下駄の歯の間に雪が重なって、歩きにくくなりました。

 雪国では当たり前の光景ですが、当時は大阪でも毎年のように、雪景色が見れたと思います。

 と、振り返ってみると、すでに大昔の感じがしてきました。

 私の場合は、大学生の時も、書生下駄と言われる、下駄の歯が太くて高い物に鉄板を貼ってもらい履いていましたが、これは特殊なものです。

 お正月は、家族そろって和服で過ごした記憶があります。

 そして今でも時々は見ますが、男性も女性も帽子を被る事が多かったと思います。

 男性は、中折れ帽と言われたつばのある帽子、女性は顔の前に網のある帽子を被る事があったと思います。両親のそんな姿を見た覚えがあります。

 思い出しました、父は和服の上にトンビと言うコートを着ていましたね。写真が残っています。これは、冬に出かけるときの服装です。

 実際にカンカン帽子にステテコ姿のおっちゃんがいましたね。夏場ですが。

 そうそう、風呂敷もファッションの一つでしょう。どこに行くにも風呂敷は必需品でした。

 また、夏になると、海水浴によく連れて行ってもらいました。兵庫県の須磨海岸です。ひと夏に数回は行ったと思います。

 この時代は、男性は「ふんどし」「パンツ」のまま、とか、女性はシミーズと言う下着で、海に入っている人が多かったようです。

 まだ水着は高かったのかも知れません。当然子供は、真っ裸か、下着だったと思います。

【出来事】

 これは、ファッションではありませんが、強烈な印象の記憶があります。これも、須磨の海岸での出来事です。

 「土座衛門や、土座衛門や」という声が、海岸にいる人達が騒いでいるので、人ごみの間から覗くと、海にプカプカとお腹がパンパンに大きくなった人が上向きで浮いていました。それも次から次へと流れてきました。

 「土座衛門」が解らなかったのですが、水死体の事です。多分海難事故でもあったのでしょうか。

 後から妻に聞いたのですが、九十九里浜でも同じように水死体が上がったそうです。その年は、海流が異常に冷たかったそうで、心臓麻痺で亡くなった人が沢山いたそうです。

【質素】

 これも、ファッションとは言えませんが、ほとんどの人が、着古した服を着ていたように思います。そして、必ずどこかに「つぎあて」がありました。

 いまでは洋服に穴が空いたら捨てると思いますが、当時はつぎあてが普通でした。靴下の場合は、穴があいた状態で履いている人もいました。

 でも、みんな元気で生きていたように、思っています。今思い返すと、質素でも豊かな時代だったような、そんな思い出がよみがえります。

 多分大人の人は苦労されたと思いますが、私はまだ幼かったので、思い出も美化されているのかも知れません。

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