文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【70】

スポンサーリンク

 今日の文字は『大豆』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第六十九段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 大豆

 
★ 9月25日のこのブログで、台風24号がフィリピンの東から北上している時に、もしかしたらと思って書きましたが、予感が的中しました。

 こんな時に的中しなくても良さそうなのに、今日明日にも日本列島を直撃しそうです。非常に強いままゆっくりと進んでいますが、本当に気を付けないといけません。

 今年は災害の当たり年なのでしょうか。それとも、温暖化が進んで影響が強くなってきたのでしょうか。

★ 朝日デジタル(2018/09/28 20:54)に『「のどあめ」なめて登壇、懲罰動議に発展 熊本市議会』という見出しがありました。その中で、「議場での議員の飲食を禁止する明確なルールはないが」と書かれてあります。

 議員の行状は目に余るものもありますが、これはもう、開いた口が塞がりません。

 こんな事、「ルール」で定めなければならないとは、世も末です。

★ 確かに、戦後アメリカが日本を統治し、テレビなどでアメリカの様子が映し出され、羨望の眼差しで、日本の文化を捨てアメリカに追従していったと思います。

 人の前で足を組むなども、アメリカでは普通の習慣でしょう。しかし、日本では、とても無礼な立ち振る舞いであったと思います。

 スポーツの場でも、最近は日本の選手でも、リラックスするために、ガムを噛んでいる選手も見かけます。

 追従するよりも、日本にはもっと良い伝統があると思うのですが、日本はもっと日本らしくならないと、国際社会と協調できないと思っています。付和雷同する事は、決して協調にならない事に気が付くべきだと思います。

★ なんだか、「卑怯なコウモリ」【イソップ童話】を思い出してしまいました。国際社会の中で毅然とした態度をとらないと、コウモリになってしまうような気がしています。

 良い日本を取り戻しましょう。

 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第六十九段 〔原文〕

 書寫の上人は、法華讀誦どくじゅの功積りて、六根淨にかなへる人なりけり。旅の假屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音の、つぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「おろからぬ己等おのれらしも、恨めしく我をば煮て、からき目を見するものかな」と言ひけり。焚かるゝ豆がらのはらはらと鳴る音は、「我が心よりする事かは。燒かるゝはいかばかり堪へがたけれども、力なきことなり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。

 

 
スポンサーリンク

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『書写の上人(性空上人・法華経の持経者・平安時代)は、法華経を読んで、よい果報を得られるような善行を積み、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意のそれぞれ六つの器官とその能力)の執着を断った人になった。

 旅の宿に立ち寄った時に、豆の殻を焚いて、豆を煮たら、ぐつぐつと煮える音を聞くと、「親しくない分けでもないお前たちが、残念な事に私を煮て酷い目に遭わせるのか」と言っている。

 焚かれている豆の殻がばらばらと鳴る音は、「好きでやっているのではない。焼かれる事も堪え難いが、仕方がない。私を恨まないでくれ」と聞こえた。 』

 

 

『大豆』

 おしゃべりな豆が登場しますが、そんな豆が騒ぎ出したら、喧しくて仕方がないと思います。

 それにしても、何だか豆やその皮が喋るとなると、火あぶりの刑を自分の身体の一部を燃やして、その炎の中に自分がいるみたいで、残酷そのものです。

 よく、こんな話を考えたものだと思います。誰が考えたのでしょうか。

 ここに兼好法師が登場しない事は、書写の上人がいた時代と違う事で解りますが、では、兼好法師は、誰に聞いた話なのでしょう。伝説なのでしょうか。

 伝説であれば、何か意味があるはずです。童話にしては残酷過ぎますが、童話の残酷さは、指摘される事もあります。

 何かを伝えたいのであれば、その意味を探らないと、伝わった意味がありません。

〔六根浄〕

 その前に、六根浄を考えて見ましょう。六根清浄と唱えながら山を駆け巡る修行方法があります。山伏と言われる修験道しゅげんどうの行者が唱えているのを聞いたことがあります。

 また、お経として有名な般若心経の一節に、無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんにと唱える部分がありますが、ここで六根は全て無いと言っています。

 そして、無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんにの次には無色声香味触法むしきしょうこうみそくほうとそれぞれ六つの器官とその能力によって自分が真実と思う事も無いと言います。

 ですから、無い事を無いと思い、無いと感じる事の難しさは、我々普通の生活をしていると、至難の業である事は想像できると思います。

 色は眼によって見る事ができます。そして、声は耳で聞く事も出来ます。同じように匂いを鼻で嗅ぐことも出来ますし、美味しい物を美味しいと感じる舌もあります。手足で、そして体でも物に触れる事ができ、世の中の在り方も意を持って考える事ができます。

 しかし、般若心経(仏説魔訶般若波羅蜜多心経)では、何も無いと言い切っています。

 この当たり前に生活の用をたいしている六根を一旦無い物とし、本来持つ機能を認識し直す事が、六根浄(六根清浄)の修行であると、私は思います。

 本来持つ人間としての機能を、永い年月世俗の垢にまみれた生活によって、さも真実であるかのように感じている現在の自分を、生まれた時の様にしようというのが、六根浄(六根清浄)です。

 書写の上人は、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意のそれぞれ六つの器官とその能力)の執着を断った人、とありますから、考え方によれば、世俗の我々とは違った超感覚を身に付けたのかも知れません。いや、身に付けたというよりも、そういう感覚を本来人間は持っているものに戻ったと言った方が良いのでしょう。

 ですから、豆の気持ちも察する事が出来た、いや豆の気持ちを聞き取る事が出来た。と解釈するべきかも知れません。

〔タンパク質〕

 私は一年間ほど、大豆を焼いて食べていました。若い頃プロテインを牛乳に入れて飲んだことがありますが、私の身体には合わずに直ぐに胃を壊してしまいました。

 それで5年程前に大豆を焼いて食べる事にしたのです。大豆の効能は広く認知されていますので、ここで言うまでもありませんが、私が期待したのは、たんぱく質です。

 畑の肉と言われていますので、経済的に良質のたんぱく質が取れると思ったからです。

 私は、人が良いと言う事は、一度は試して見る事にしています。この大豆も、始めた原因を失念しましたが、多分NHKの「ためしてガッテン」で紹介されたのかも知れません。

 しかし、大豆は何も語ってくれませんでした。そして、効果を感じる事もありませんでした。

〔超能力〕

 喋ってくれなかったのは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意のそれぞれ六つの器官とその能力)の執着を断つ事が出来ていなかったのだと思いましょう。

 人は自分が見える物、触る事の出来る物、いわゆる六根に頼って物事を認識しています。これが人間本来の能力を無くしていると感じる事は、今までにも随分あります。

 私にはありませんが、 予知能力や念力と呼ばれる超能力が、時代と共に消えて行っていると考える事があります。

 現実に空手の技を永年やっていますと、相手の動く事を予知できるようになります。それは、現実として感じますので、自分では予知とは思えません。
 
 相手が動く前に、動く事は、空手を数年修行した人であれば、概ね会得して相手の動きに対応できると思います。

 相撲の仕切りを「阿吽の呼吸」と言いますが、これも相手との呼吸ではなく、気持ちを合わせる事で成立します。

 これも、人間が持っている不思議と言えば不思議な力でしょう。

 豆の気持ちは分からないまでも、人間には目に見えない力が備わっているのだと思います。

 学校で勉強する知識は、テストをする事で優劣がつきます。しかし、本来持っている能力をテストで測る事が出来ません。しかも、時代を経るにつれて、退化しているとしたら、もったいない事だと思います。

 私は往生して極楽に行けたとしても、嬉しくもありません。出来れば、生きている内に、人間が本来持っている能力を身に付ける事が出来ればと思い、仙人になりたいと思っているのです。

 まぁ、気持ちはあっても、なんの努力もしていないのですから、虫の良い話ですね。虫に笑われてしまいそうです、いや豆の失笑を買うだけで、一生を終えるような気持ちがします。それもまた人生なのかも知れません。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です