文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【86】

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 今日の文字は『けん』です。かしこいと言う漢字を行書で書きました。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第八十五段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
 朝からどんよりしています。雨は降らないようですが。体調は今少し。

 現在の朝の体操のカリキュラムです。
1.股関節前後 膝が床と平行になる場所に腰かけて、膝に手をついて前後に腰を動かす。
2.股関節回転 同じ姿勢で、腰を回転する。
3.ちょいもれ  ちょい漏れストップ!!に記載
4.組手動作1 秘密
5.組手動作2 秘密
6.下段回し蹴り 
7.三進 3回
8.転掌 3回
9.鍛練型 秘密
10.支え足踏み 膝の高さぐらいの場所に拳立て伏せの姿勢(プランク)で、踵だけを交互に上げる。
11.正座正拳 正座をして拳立ての状態で、肩を中心に素早く上下
12.正座指立て 同じく指立て伏せの状態で、肩を中心に素早く上下
13.開脚屈伸 立った状態で足を1m程度開き、片方ずつ屈伸
14.開脚足刀出し 13.から足の肉球を中心に回転して踵を出し、腰を前後に動かす。
15.開脚屈伸 13.の開脚を少し広げる
16.開脚足刀出し 15.から足の肉球を中心に回転して踵を出し、腰を前後に動かす。
17.腕立て伏せ 拳立ての姿勢からゆっくり15回、休憩30秒、拳立ての姿勢で早く30回、苦しくなったら膝を着いて回数をこなす。
以上、回数が書かれていない場合は、5分間ずつ。13.~16.はトータル10分です。約1時間20分から30分で終了です。

 今日は、このカリキュラムに追加して、松濤館流の15の型を一通り軽く流しました。ただし、一畳で足運びを変えながらやってます。

 ちなみに、このカリキュラムは2ヵ月ほど、マイナーチェンジしながら続けています。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第八十五段 〔原文〕

 人の心すなほならねば、僞りなきにしもあらず。されども、自ら正直の人、などかなからん。己すなほならねど、人の賢を見て羨むは世の常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んが爲に、少しきの利を受けず、僞り飾りて名を立てむとす」とそしる。おのれが心に違へるによりて、このあざけりをなすにて知りぬ。この人は下愚かぐの性うつるべからず、僞りて小利をもすべからず。假にも賢を学ぶべからず。

 狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり。惡人の真似とて人を殺さば、惡人なり。を学ぶはの類ひ、しゅんを学ぶはしゅんともがらなり。僞りても賢を学ばむを賢といふべし。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『人の心は素直ではない、だから偽りもある。しかし、まれには正直の人がいないわけではない。自分が素直でなくても、人の賢さを見て羨ましく思うのが世の常である。きわめて愚かな人は、稀な賢い人を見てこれを憎む。

「大きな利を得ようと、僅かの利を受けず、虚飾で名を成そうとしている」と憎まれ口をきく。自分の考えと違うからあざける。このような人は極めて愚かな性格を変えようとしない。嘘をついてでも、小さな利益を得ようとする。少しでも賢さを学ぶ事ができない。
 
 狂人の真似だと大路を走れば、則ち狂人である。悪人の真似だと言って人を殺せば、悪人である。
 駿馬を学べば駿馬の類、しゅん※を学べば、しゅん※の仲間である。偽りであっても賢を学べば、賢というべきである。』

【参照】
しゅん:中国の古伝説上の聖王。五帝の一人。儒教の聖人の一人。姓は虞、名は重華。その治世は、先帝尭ぎようの世とともに天下が最もよく治まった黄金時代とされる。大舜。有虞氏。
(出典:大辞林第三版 三省堂.)

 

 

『賢』

 ここでは、「素直」「正直」「賢」と言う文字が混在していて、それぞれに意味があるかも分かりませんが、私には少し分かりにくいので、次のように解釈しました。

 『人の心すなほならねば、僞りなきにしもあらず。』を「人は生まれながらに、正直ではないので、その言動は偽善となる事もある」

 『されども、自ら正直の人、などかなからん。』を「しかし、稀に正直な人がいないわけがない、いや、いるはずだ」

 『己すなほならねど、人の賢を見て羨むは世の常なり。』を「自分自身が正直ではないので、人が正直なのを見て羨ましく思うのが世の常である」
  
 『至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。』を「きわめて愚かな人は、稀にいる正直な人を見て、これを憎む」

 次に続く文章も、『假にも賢を学ぶべからず。』『賢』を「正直」と置き換えた方が、私には腑に落ちました。

 しかし、私なら「人は生まれながらに嘘をつくが、まれに正直な人もいると思う。正直者でない人は、正直な人を小馬鹿にする。だから、正直者に成れない。」とでも書くでしょう。

 また、「正直な人の事を、名声を得たいがために、少しの利益を我慢しているのではないかと、疑ってかかる。こんな人は、嘘をついてでも、少しの利益を受けたがる。そんな事をしているから正直者には成れない。」
 と、続けるでしょう。

 昔の文章を解読するのは、難しいです。

 確かにこの文章の最後に書かれてあるように、「朱に交われば赤くなる」事もあると思います。「類は友を呼ぶ」とも言います。

 どちらがどちらを引き付けているのか分かりませんが、学ぶと言う事は、真似る事から始まると言われていますので、偽りであっても賢を学べば、賢というべきである。』偽り』と言う言葉を、「信じていなくても」とか「本心ではなくても」とすると、真似事でもいいから、正直な事を学べば、いつかは正直者になると解釈する事ができると思います。

 しかし、私が生まれてから、僅かの間に、人の性格と言えるのか、本性と言えばよいのか、変わってきたように感じています。

 最近は、嘘か誠か、判断できなくなっています。これは、私の個人的な感想ですが、例えば、人殺しの犯人が、逮捕される前に、インタビューを受けている様子が映し出される事があります。

 その様子は、私には犯人とは、まったく思えません。ごくごく普通の人に見えます。

 また、疑惑の官僚などもインタビューを受けて、平気で嘘を言っています。これも、嘘かどうか、その顔つきや言葉から、はかり知る事ができません。

 今から40年程前にあった、ロッキード事件の時など、当時の一部上場の社長や会長などが、国会で証人喚問された時の様子を、テレビで見ましたが、その顔や言動に焦りが色濃く映し出されたのを思い出します。

 中でも、全日空の若狭社長だったか大庭前社長だったのか記憶がはっきりしませんが、署名の時に手が震えて書く事も出来ない様子が、映し出されました。

 これほどの人達でも、嘘が言動に現れるのか、と思ったのですが、最近の国会招致では、誰も平気で、話しをしています。

 嘘が当たり前の世の中になったのかも知れません。兼好法師の言うように、正直者は稀なのかも知れません。
 それとも、ごく普通の人が、何かのキッカケで、犯罪に手を染めるような、そんな時代が来ているのかも知れません。

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