文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【95】

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 今日の文字は『慣例かんれい』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第九十四段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 慣例

 
 最近2時間ごとに起きてトイレに行くようになり、ちょっと寝不足。で、朝5時から1時間半ほど、今日は外に出て運動しました。

 やっぱり外の方が運動量は多くなります。外の場合は、立木や鉄棒などを使えますので、少し負荷がかかる分疲労度が増します。何より、スロージョギングが出来るので良いかと思っています。

 帰って風呂に入ってから、2時間ほどお習字をして、このブログに取り掛かりました。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第九十四段 〔原文〕

 「常磐井相國ときわいしゃうこく、出仕したまひけるに、敕書ちょくしょを持ちたる北面あひ奉りて、馬よりおりたりけるを、相國しゃうこく、後に、「北面なにがしは、敕書を持ちながら下馬し侍りし者なり。かほどの者、いかでか君に仕うまつり候ふべき」と申されければ、北面を放たれにけり。

 敕書ちょくしょを馬の上ながら捧げて見せたてまつるべし、下るべからずとぞ。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『常磐井相國ときわいしゃうこく西園寺実氏さいおんじさねうじ)が勤めに出た時に、勅書を持たれた、北面の武士にあった。北面の武士は馬から下りて敬意を表した。相國しゃうこくは後に、「北面の武士の某は、敕書を持っているのにも拘わらず、下馬して挨拶をした。この程度の非常識な者が、どうやって君に仕えられるか」と申され、北面の武士は解雇された。

  敕書ちょくしょを馬の上で掲げて見せ、下馬しない習わしである。』

 

 

『慣例』

 確かに慣例や仕来しきたり、今で言えば規則に当たるのでしょうが、規則は、取りあえず守らなければなりません。守るためにルールを決めるのですから。

 「悪法もまた法なり」と言う事を言われますが、ソクラテスの最後の言葉として有名です。これも真偽のほどは、分かりません。

 この格言を否定しようと思えば、いくらでもできると思います。そして肯定する意見も同様です。

 規則と言うものは、その組織や村、町や国の人が守る事で世情が安定するために作られています。ですから、時代や場所が変われば変化するのが当然です。

 ソクラテスの時代や、兼好法師の時代は、時の為政者は独裁であったと思いますので、その規律を守らなければ、理不尽な規則であっても従わなければ、躊躇なく断罪されたでしょう。

 ここで兼好法師の言う、 慣例と思われるようなものでも、守らなければ職を失う事になります。

 現在の日本では、民主主義ですから、ルールは大部分の人が賛同して出来ていると仮定したうえで成り立っています。

 理屈っぽい言い方になりましたが、すんなり言えないのは、私達が知らない所で、ルールが決められ、教えられないままに、ルール違反を犯してしまう可能性があるからです。

 前にも書きましたが、少なくとも義務教育の期間に、憲法や民法くらいは、小学生にでも分かるような教科書をつくり、授業の中に組み入れてもらいたいと思います。

 今、規則と、慣例や仕来しきたりを同じように扱って書きましたが、本当は一緒にしてはいけないとは思っています。

 兼好法師の時代では、仕来しきたりを知らなければ、あるいは守らなければ、人から常識なしと罵られ、場合によって、今回の話の様に生活の基盤まで無くす事になってしまいます。

 しかし、兼好法師は、こんな仕来しきたりにどんな意味があるのか、と釘をさしたかったと考えるのは、穿った見方になるのでしょうか。私などは、そうあってほしいと思います。

 逆に、この北面の武士は、礼儀正しい武士と褒めてあげたいほどです。如何にも階級制度によって、生まれた慣例だと思います。

 昔の時代を背景に考えないといけないのですが、残念ながら私は昭和の生まれです。

 現在もやはり敬うという気持ちはあると思います。よく、恩義のある人に対して、足を向けて寝れないというのと同じです。

 ですから、本人が思う気持ちの現れであってほしいと思うのです。でなければ、「虎の威を借る狐」にならないでしょうか。

 随分前の事ですが、ある会社にいた頃、電話をとった途端「お前誰や!」と怒鳴られた事がありました。当時、私はその会社の支社長でした。その怒鳴った相手は、ある偉い人の運転手をしていた人です。

 後で社員に聞いたところ、いつもそんな電話の掛け方をする人だそうです。まさに、「虎の威を借る狐」を絵に描いたような話です。

 もうひとり、同じように、電話をとった途端「お前誰や!」といった人がいました。元府会議員の人です。この人は「虎の威を借る狐」ではなく、勘違いなのか、相手を威圧して、偉いと言う事を、印象付けようという魂胆なのか分かりませんが、その人の生き方でしょう。それまでの人生では、効果があったのでしょうね。残念ながら私には効果はありませんでした。

 話が横道に逸れてしまいましたが、当時は、偉い人の書面を持っていると、その人の代理として通用したのでしょう。江戸時代の時代劇でも、上意と書いた書面を掲げると、一同ひれ伏すのが常識ですね。

 どの程度まで敬意を表せば良いかは、その組織、団体によるとは思いますが、如何にも虚構と思われるような表し方は、反って無礼になると思うのですが、上にいる人の中には、こういうワザとらしくされる事を、本当に喜ぶ人もいます。裸の王様そのものです。

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