文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【98】

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 今日の文字は『ひょう』を書きます。『ものに憑りつかれる』と言う意味の漢字です。書体は行書で書きました。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第九十七段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
★『僧侶ら電力小売り参入へ 中四国、寺の活動サポート』
(共同通信2018/10/25 20:20)

 インターネットで、記者会見の模様を見ました。会見を聞いて、主旨は分かりましたが、その話しぶりは、財界の人で、僧侶とは思えません。

 そんな時代に突入か、と思いました。なぜ政教分離なのか、なぜ僧侶が経済活動をしなくてはいけないのか、そんな時代が来たのか、それとも、世の中から節度が無くなっていくのか、やはり、私が以前から考えているように、資本主義社会、自由主義社会の岐路に立たされているのかも、と、ふと、考えてしまう。朝でした。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第九十七段 〔原文〕

 其の物につきて、その物を費し損ふもの、數を知らずあり。身にしらみあり。家に鼠あり。國に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『その物に憑りついて、を疲れ弱らせてしまう物は、無数にある。身にはしらみがある。家にはネズミ、国には外敵があり、品性の卑しい者には財がある。君子には仁義があり、僧侶には仏法がある。』

 

 

『憑』

 ここで、流石、と思ったのは『僧に法あり』の部分です。上げたり下げたり忙しいですが、この『僧に法あり』は、お見事です。

 良寛さんの言葉に、『悟り臭き話』がありますが、その道を歩むと、その道特有の物言いになります。それは、専門知識が増えるからとも言えますが、ちょっと威張って見たくなるのかも知れません。

 それらしく振舞うのが、いかにもそれらしい、と思ってしまいます。

 私も若い頃は、武道家らしくありたいと、それらしく振舞っていたかも知れません。なるべくそんな素振りは、見せないように心がけていたのですが、少し人が高圧的な態度をとると、途端にこれを抑えようとしてしまう事が度々ありました。

 ここで憑りつく、のみしらみであれば、現在では薬を散布するとか、噛まれた時には、痒み止めを塗るとかできますが、兼好法師の時代はどうしたのでしょう。

 第二次世界大戦後の日本では、のみしらみ、南京虫が大量に発生したのでしょう。DDTを頭からかけられている映像を見た事がありますが、DDTという殺虫剤は家庭にもあったと思います。

 ネズミは、今でもいます。前の家には天井裏を大きな音を立てて、走り回っていました。前の家では、夜中にペレットがどこから入って来たのか、家族で庭を走り回っていました。

 ここで兼好法師の言いたいのは、これは前段として書かれただけで、『財』『仁義』『仏法』について、憑りつかれていると言いたかったのだと思います。

 『財』については、『小人』と書かれていますが、古語辞典(学研全訳古語辞典 学研.)では、身分の低い人の事や、庶民、あるいは、徳のない、品性の卑しい者、を言っていますが、身分制度の時代ですから、身分の低い人は当然財を成す事は無かったと思えます。

 では、ここで言われる『小人』と言うのは、身分の高い人で品性の卑しい人の事、あるいは、僧侶でありながら、財を求める事に没頭しているような人の事を言っているのだと思います。

 現在でも、生活に困っているその日暮らしの人よりも、お金に困っていない人の方が、お金に執着しているように感じます。それだけ、お金には魅力があるのかも知れません。

 お金の魅力に憑りつかれているとしたら、それは、のみしらみと同じなのかも知れません。一旦憑りつかれたら、そこから逃れる事が難しいのかも知れません。

 君子には『仁義』と書かれていますが、やくざ映画でみる、仁義を切るのとは、意味合いが違います。

 当時は、中国の影響が非常に大きく、仁義も、儒教で道徳の根本とする、仁と義の事を言っているのだと思っています。

 儒教で言う、 『仁』とは、論語にもありましたが、徳の事です。平たく言えば、優しさを備えた人格とでも言えば良いのかも知れません。そんな人の事を品性があると言うのでしょう。

 今簡単に思うままに、孔子の言う仁を解釈しましたが、孟子は、これを同情する心と言っています。ですから、日本に伝わった時点でどのような形で仁が伝わったかは、解りません。しかし概ね『仁』と言うものが無いと、人格者とは言えないでしょう。

 論語にも、学而編1-3に『子曰 巧言令色こうげんれいしょく 鮮矣仁すくないかなじん耳障りの良い言葉を信用するな、と言う意味だと、このブログの『論語を読んで見よう』に書きましたが、違った言い方をすれば、美辞麗句を並べる人には『仁』がなく、信用してはいけない、と言う事だと思います。

 では、なぜ、兼好法師は、君子は『仁義』に憑りつかれていると書いているのでしょう。

 その前に、『義』と言うのは、「正しい事」と解釈しておきましょう。

 だとすれば、君子が是非持っていなければいけない、行動規範ではないかと思うのですが、それを、のみしらみと同じように扱っています。

 理由は、『仁義』と言うものに憑りつかれて、『仁義』に操られるようになっていると言いたいのではないでしょうか。 本来『仁義』は、身に付ける物であって、規則や訓戒ではないはずです。しかし、物事を行う時に『仁義』を持ち出して、縛られているのではないかと、思います。

 また、『仁義』を理由に人を評価したり、批判していたのではないかと思うのです。

 兼好法師は、このような君子に換言する意味でこの段を書いたような気がします。

 さて、『僧に法あり』と言っていますが、当然僧侶には学ぶべき経典があり仏法があり、そして仏道を歩むのです。何も悪い事ではありません。

 しかし、その取り組み方に問題があると、言いたいのではないか、と思っています。

 修行と言うのは、この取り組み方を間違うと、あらぬ方向に行ってしまい、本来の目的を見失ってしまうと思います。

 私は、このブログで、何度か『ものには、仕方がある』と書きました。何も、修行でなくても、社会生活の中でも同じ事が言えますし、間違いが起こりやすいのが、仕方です。

 例えば、今大阪駅にいるとしましょう。東京駅に着くのが目的です。ところが、乗る電車を間違えて、大阪環状線に乗ったら、いつまで経っても東京駅には着きません。

 こんな場合は、直ぐに気が付き、方法を変えるでしょう。

 しかし、これが新大阪まで行き、九州行きの新幹線に乗ってしまったら、直ぐには方向を変える事が出来ません。

 もちろん高速道路でも同じ事が言えます。

 そんな馬鹿な事はしないと思っていますが、急いでいる時には、正常な判断が出来ない場合もあります。それが『ものに憑りつかれた』場合です。目の前が見えなくなり判断を間違うのです。

 先ほど、良寛さんの言葉『悟り臭き話』を出しましたが、他にも『学者臭き話』、『茶人臭き話』、『風雅臭き話』などが『戒語』として遺っています。

 目的を間違えず、仕方を間違えなくても、『物に憑りつかれたように』修行をすると、この『・・・臭き人』になりかねないと、兼好法師は言いたいのかも知れません。

 もう一つ兼好法師は『國に賊あり』と言っていますが、私は社会に蔓延はびこる悪人の事では無いような気がします。

 それは、外敵と言われるもので、国を滅ぼそうとする外国であったり、もしかしたら、国の中にも謀反を企てている集団がいるかも知れません。

 もちろん、油断大敵と言いますから、それなりの防衛策はなければなりません。当時の権力者、為政者と呼ばれている人達は、少なくとも天下統一と言う 「錦の御旗」を掲げて、敵を倒して君臨した分けですから、また同じ事が起こる可能性は否めません。そして、歴史はそのような歴史を繰り返しました。

 兼好法師は、これにも、警鐘をならしたのではないでしょうか。防衛策に汲々となっていては、民の為にはならない、と言う事だと思います。

 何度もこのブログで書いていますが、「足るを知る」事だと思います。私の言葉で言えば、「いい加減」と言う事です。徳川家康の遺訓の中の一節「及ばざるは過ぎたるよりまされり。」で、故事の「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と同じ言葉ですが、「適度」が良いと思います。

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