文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【103】

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 今日の文字は『熟練じゅくれん』です。よく熟練者の事をたくみなどと言います。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 熟練

 

★「禅 ZEN 大本山總持寺へ」
NHKG10月31日(水曜日)午後8時15分~午後8時43分
【ゲスト】SHIHO,【司会】爆笑問題(太田光・田中裕二),【出演】サヘル・ローズ,【語り】木村昴,島本須美

 まず、ナレーションの『そうどうしゅう』に引っかかりました。私は曹洞宗そうとうしゅうと、『洞』は、濁らない読み方で覚えていました。

 夜中に気になって、ネットですが、どの辞書も『そうとうしゅう』とありました。

 天下のNHKが間違う分けはないと思い、そうとも言うのかな、と思いましたが、私は『そうとうしゅう』と覚えておくことにします。

 大本山總持寺で修行をしている、外国の人に、SHIHOさんが『なぜここにいるのですか』と訊ねる場面があったのですが、その修行僧は、すかさず『あなたは、なぜ女性ですか』と問いに対して問いで返しました。

 これを、間、髪を容れず、太田光さんが『禅問答が始まった』と合いの手を入れました。

 太田光さんは、お笑いの人ですから、人を笑わせるのがお仕事です。しかし、間違った合いの手は、場を混乱に陥れます。

 これは、『禅問答』でも何でもありません。売り言葉に買い言葉と言われても仕方がない、返答です。修行僧と言えども外国の方ですから、会話は上手くないのかも知れませんが、問いを問いで返すような非礼なやりとりを、この總持寺で学んでいるとしたら、計5年も修行した甲斐がありません。

 太田光さんは、相手をいじるのは、職業柄仕方がないのかも知れませんが、少なくとも、座禅をしている時ぐらい、隣の田中裕二さんのように姿勢を正してほしかったと思いました。それとも、身体のどこかが悪いのでしょうか。お医者さんに行った方が良いと思ってしまいました。

 最後に、案内役の僧侶に『悟りとは』とSHIHOさんが聞くと、『覚悟』と答えました。また『坐禅の姿』とも言いました。

 お釈迦様の伝えたかった、『禅』は、どこに行ってしまったのでしょうか。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百二段 〔原文〕

 尹大納言いんのだいなごん光忠卿、追儺の上卿しゃうけいを務められけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、「又五郎男またごろうおのこを師とするより外の才覺候はじ」とぞ宣ひける。かの又五郎は、老いたる衞士の、よく公事に馴れたる者にてぞありける。近衞殿 著陣したまひける時、膝突を忘れて、外記を召されければ、火たきて候ひけるが、「まづ膝突をめさるべくや候らん」と、忍びやかにつぶやきける、いとをかしかりけり。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

尹大納言いんのだいなごん光忠卿が、鬼遣おにやらいの儀式の、臨時に執行の責任者を務められた時に、洞院右大臣に儀式の方法を教えてもらおうと願い出たところ、「又五郎男またごろうおのこに教そわる以外考えられない」と仰った。その又五郎は年老いた警備の兵士で、宮中の儀式に精通していた。

 近衞殿 陣地に到着された時、膝突を忘れて、役人を呼び寄せたので、近くで火を焚いていた又五郎が「まづ膝突をめさるべくや候らん」と呟いたのが、いかにも可笑しかった。』

 

 

『熟練』

 余計な事は言わないのが、身分制度の悪い所かも知れません。と言うか、言える身分ではないのでしょう。

 この又五郎にしても、これだけ熟練者にも拘わらず、大臣が見込んだ人であっても、警備の兵士から、老兵になるまでうだつが上がらなかったと見えます。

 ここで、衞士とありますが、平安時代には、雑役に駆使された。と、学研全訳古語辞典には載っています。鎌倉時代にはどのような扱いかは分かりませんが、概ね同じような扱いであったと推測します。

 現在のような身分制度のない時代には、想像もできない世界だったと思います。

 今でも、財力によって格差は十分感じますが、競争社会ですから、初めからその身分が確定している分けではありません。

 私は競争社会を肯定している分けではありません。理由は、人間は生まれた時から、不平等に生まれついていると思っています。競争しようと思っても出来ない人もいるのです。

 私の中学生から大学の頃まで、親友であった人がいますが、彼は、いわゆる天才です。パラパラと教科書をめくっただけで、試験勉強は終わりです。ほんの10分から15分です。それで、ページの隅々まで頭に入るのですから、これは競走しても勝てるわけがありません。

 私の主宰する空手の道場も、競争の原理を戒めています。日本空手道髓心会のホームページの最初に『髓心会がめざす空手道』として

一握りの恵まれた武道の才よりも、空手道を、自らが社会を誠実に生き抜くための叡智としたい。誰もが持っていて、その存在に気づくことの少ない「真の我」を観、心の髄を体感する。そんな空手道をめざしています。

 

と書きました。

 私は天才に生まれた人は、天才として人に役立つような人間になって欲しいと思っています。それだけ、恵まれた才能があるのですから。

 私は不平等に生まれていると書きましたが、その不平等の中で、「足るを知る」生き方を望めば、決して不幸な人生では無くなると思っています。

 天才と言えども、「足るを知る」事が無ければ、人生は愚痴と不満で、決して幸福とは言えない人生を送る事になります。

 「分を知る」事が意外と出来ないのでしょう。身分制度の中では、当然の事が、自由と平等と言う権利が与えられると、なかなか「分を知る」事が出来ないのが実情です。

 平等と言われ続け、自由だと言われて、人は育ちます。勉強のできる人もいるし、絵を描いたり、物を造ったり、個人個人が違う才能を持っているにも拘わらず、平等だと習います。

 そして、社会に出た途端に、不平等を目の当たりにします。決して自由など許されません。これでは、精神的に耐えられない人が、出来ても不思議ではないと思います。

 私も、そんな理不尽な社会の構造と、人間関係では、いやと言うほど、悩み、苦しんだ時期があります。

 その考え方を変えてくれたのが、「分を知る」「足るを知る」と言う言葉でした。

 そして、人はそれぞれですから、人と比べる必要はありません。個人に備わった個性を大切にすれば良いと思います。まちがっても、個性を主張するのではないと思います。 個性は、主張しないから個性だと思っています。

 よく、個性を大切にしないといけないと、言う人がいます。というより、大半がこの言葉によって、その人の可能性の限界を造ってしまっているように思います。

 私は、基本を守っても、稽古しても、練習しても、練磨しても、どうしても、基本に添わない物が残ると思っています。

 それは、出来ないのではなく、それが個性だと思うのです。努力しても努力しても、習った通りに出来ない物を大切にすると、そこには独自という物が現れると思っています。それが、熟練であり、ではないのでしょうか。

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