今日の文字は『泊』です。外泊の泊です。泊まるとも言います。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百四段』を読んで見て、感じた文字です。
原文
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泊
★朝日放送テレビ番組CAST
(PM4:54~)
メインキャスターが上田剛彦さんに変わってから、少し見るようになりました。前は余りにも、局の意向が強すぎるように感じていたのですが、この人に変わってから、公平な番組に変わったように思いました。キャラクターのせいかも知れませんが。
昨日は、フリージャーナリスト安田純平さんの「自己責任問題」をテーマに話されていましたが、その中で気になった言葉がありましたので、ここに書きたいと思います。
ジャーナリスト青木理さんは、いつも拝見していると、一見知的な有識者というイメージですが、発言に時々引っかかります。
ABCテレビコメンテーターの木原善隆さんに至っては、いつも引っかかっています。
この青木理さんが、今までにジャーナリストの在り方を伝えてこなかった自分たちにも責任があるのですが、と言われたのですが、この部分はまさに、ジャーナリストとは何かが、世間一般、私も含めてよく理解出来ない所です。
しかし、この中で、国が報じる部分だけでは、情報が偏ってしまうので、戦争の実情を伝えたい、と言い、自分は行きたい、と言われていました。使命感でしょう。
これは、個人の大義だと思います。これが、正しい行いと言われると、俄かには賛成できません。
大本営の時代ならともかく、現在国が情報を操作していると思うなら、その事を暴くのが、現在のジャーナリストに求められている、本分ではないかと、思います。
誰もが、戦争の現状を知りたいと思っている分けではありません。確かに、戦後70年以上も経ちますと、戦争の悲惨さは伝えていく必要を感じますが、すこし真面な感性を持ち合わせているなら、戦争の悲惨さだけではなく、その人間として悖るような行為を平気でしてしまう戦争を心から憎むと思い、二度と戦争の起こらない世の中にしようと思うと思います。
物事には一見正しいと思われる事も、功罪両面を持つものだと思っています。ある人に取っては都合の良い事でも、ある人に取っては都合の悪い場合もあります。
企業でも正しい事をやっていると思うから、存続しようと努力しているのかも知れませんが、行き過ぎるとただ企業の存続だけが先走りしてしまいます。
ジャーナリズムも行き過ぎないよう、自分たちで自浄努力が出来るような仕組みを作ってほしいと思います。人間が作り出したものには、完璧と言うものは存在しないと思った方が良さそうだと思うのですが。
さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。
徒然草 第百四段 〔原文〕
荒れたる宿の、人目なきに、女の憚る事あるころにて、つれづれと籠り居たるを、ある人、とぶらひ給はんとて、夕月夜のおぼつかなき程に、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことごとしく咎むれば、下衆女の出でて、「いづくよりぞ」と言ふに、やがて案内せさせて入り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかで過すらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷に、しばし立ち給へるを、もてしづめたるけはひの、若やかなるして、「こなた」と言ふ人あれば、たてあけ所狭げなる遣戸よりぞ入り給ひぬる。
内のさまは、いたくすさまじからず。心にくく、灯はかなたにほのかなれど、ものの綺羅など見えて、俄かにしもあらぬ匂ひ、いとなつかしう住みなしたり。「門よくさしてよ。雨もぞふる。御車は門の下に、御供の人はそこそこに」と言へば、「今宵ぞやすき寝は寢べかめる」と、うちさゝめくも、忍びたれど、ほどなければ、ほの聞ゆ。
さて、この程の事ども、細やかに聞え給ふに、夜ぶかき鳥も鳴きぬ。來しかた行くすゑかけて、まめやかなる御物語に、この度は鳥も花やかなる聲にうちしきれば、明け離るゝにやと聞きたまへど、夜深く急ぐべきところの様にもあらねば、少したゆみ給へるに、隙白くなれば、忘れ難きことなど言ひて、立ち出で給ふに、梢も庭もめづらしく青みわたりたる卯月ばかりの曙、艷にをかしかりしを思し出でて、桂の木の大きなるが隠るゝまで、今も見送り給ふとぞ。