文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【108】

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 今日の文字は『りょ』です。おもんぱかると言う言葉もあります。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百七段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
★『安倍新内閣、いきなり「片山劇場」の帰結は? 自民党は早期決着、野党は引き延ばし作戦』
(東洋経済ONELINE泉 宏 2018/11/06 06:40)
「——前略——- 2004年の省内人事で女性初の主計官となった片山氏は、担当した防衛庁(現防衛省)との予算折衝で防衛費削減をめぐってトラブルを起こし、直属の上司が事態収拾に乗り出す騒ぎとなったという。その際、上司から厳しく叱責された片山氏が「突然激高して両手で机をバーンと叩き、手元のボールペンを壁に投げつけた」(元上司)という逸話だ。当時の上司は「そのボールペンが主計局の部屋の壁に突き刺さり、居合わせた全員が凍り付く中、ポトンと床に落ちた音が忘れられない」と今でも苦笑しているという。——後略——-」

 このニュースが出て初めのころに、現在提訴中の相手方が議員会館で、片山さつき議員に面談した時の、片山さつき議員と議員秘書とのやりとりを聞いて、渡辺喜美参議院議員と秘書とのやりとりを思い出しました。テレビで放映中のこのやりとりで、渡辺喜美参議院議員の裏の顔を見た思いがしました。

 片山さつき議員の事は、実際にテレビで放映された所を見た事もありませんし、放映されたかどうかも知りません。

 しかし、東洋経済ONELINE泉 宏の執筆を見ますと、同じような裏の顔を持っているのかも知れません。

 ただ、この青色申告の問題は、謎が多すぎて、結局司法に委ね、結果を待つより仕方ないと思います。

 まず、問題が3年前の事がなぜ今、と言う素朴な疑問です。そして、どの程度の規模の会社か分かりませんが、青色申告でのメリットは、そんなにも多くはないと思います。また、そんな依頼がもし議員から国税局にされた場合、国税局には青色申告取り消しに関するルールが確立されていて、外部からの圧力が入る余地が残されていないように聞きます。

 なんとも、不可解な事案ですが、提訴の結果を見たいものです。野次馬として。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百七段 〔原文〕

 女の物いひかけたる返り事、とりあへずよき程にする男は、有りがたきものぞとて、龜山院の御時、しれたる女房ども、若き男達おのこだちの參らるゝ毎に、「郭公ほととぎすや聞き給へる」と問ひて試みられけるに、なにがしの大納言とかやは、「數ならぬ身は、え聞き候はず」と答へられけり。堀河内大臣殿は、「岩倉にて聞きて候ひしやらん」と仰せられけるを、「これは難なし。數ならぬ身むつかし」など定め合はれけり。

 すべておのこをば、女に笑はれぬ樣におほしたつべしとぞ。「淨土寺の前關白殿は、幼くて、安喜門院のよく教へまゐらせさせ給ひける故に、御詞などのよきぞ」と人の仰せられけるとかや。山階左大臣殿は、「怪しの下女の見奉るも、いと恥しく、心づかひせらるゝ」とこそ、仰せられけれ。女のなき世なりせば、衣紋えもんも冠も、いかにもあれ、ひきつくろふ人も侍らじ。

 かく人に恥ぢらるゝ女、いかばかりいみじきものぞと思ふに、女のしょうは皆ひがめり。人我にんがの相 深く、貪欲甚だしく、物の理を知らず、たゞ迷ひの方に心も早く移り、詞も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず。用意あるかと見れば、また、あさましき事まで、問はずがたりに言ひ出す。深くたばかり飾れる事は、男の智慧にも優りたるかと思へば、その事、あとより顯はるゝを知らず。質朴すなおならずして、拙きものは女なり。その心に隨ひてよく思はれんことは、心 憂かるべし。されば、何かは女の恥かしからん。もし賢女あらば、それも物うとく、すさまじかりなん。たゞ迷ひをあるじとしてかれに隨ふ時、やさしくもおもしろくも覺ゆべきことなり。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。かなり意訳しました。

『女性が話しかけた時に、上手く返答できる男性は、本当に珍しい。亀山院の御治世の頃、愚かな女官達が若い男性が来る度に「ほととぎすの鳴き声を聞きましたか」と尋ねて試したが、なにがしの大納言が「取るに足らない身の上なので、聞けません」と答えられた。
 堀河内大臣殿は、「岩倉で聞いたと思う」と仰ったので、「この答えには欠点がない。取るに足らない身の上は、いやな感じ。」などと判定し合った。

 すべて男子は女性に馬鹿にされないよう育てるべきである。
 「淨土寺の前関白殿は、幼い内から、安喜門院からよく教え込まれので、言葉使いが良い」と人が言っていたようだ。
 山階左大臣殿は、「身分の低い女性に見られるのも、大変気恥ずかしく、気を使う」と仰せられた。
 女がいない世の中であれば、衣服や冠も、どうでもよくなり、きりっとする人もいなくなるだろう。

 このように男が気兼ねする女性は、どのくらい素晴らしいかと考えると、女性の本性を、みんなは、見間違えているのだ。
 実は利己的な考え方が強く、甚だしく欲が深く、物の道理を知らず、ただ片寄った考えを持ち、言葉巧みになり、隠す必要のない事を問うても答えない。だから気配りがあるかと思えば、みっともない事まで、聞かれていないのに喋る。甚だしく工夫して飾る事は、男の智慧に勝ると思えば、その事が後で暴露される事も知らない。

 素直ではなく、未熟なのは女性である。そんな女性に良く思われようとすると気が滅入る。だから、どうして女に気を遣う必要があるだろうか。しかし、もし賢い女性がいるとしても、それも親しみにくく興ざめするに違いない。

 ただ心の迷いの通りに女性の虜になると、優しくも、魅力的にも、思えてくるはずである。』

 

 

『慮』

 あれこれ思いを巡らす、と言う意味で、『りょ』と言う文字を取り上げました。おもんぱかるです。

 兼好法師も、女性の存在に対して、あれやこれやと考えているみたいですね。それほど女性の存在は、男性にとって、複雑怪奇なものなのでしょう。今も昔も。

 私は、何も女性に限った事では無く、男女ともに複雑怪奇な生き物と思っています。男女と言うよりも、人間は、と言った方が良さそうです。

 まったくの私見と言えば良いのか、私情と言った方が的を得ていると思いますが、永年の経験から、割り出した答えがあります。

 男女ともにと書きましたが、別に男性に興味がある分けではないので、誤解しないでもらいたいと思います。

 なぜ、複雑怪奇、摩訶不思議かと言いますと、人間自体が不思議な生き物だから、と言ってしまうとそれまでですが、本当に不思議な生き物です。

 その原因は、考えると言う事から起こると思っています。人間は「考える葦」パスカルの「パンセ」の中の言葉で有名ですが、人間の持つ特殊な能力なのでしょう。生物として生きていくための叡智が発揮されるのも、考えるという事が出来るからだと、考えたのかも知れません。

 そのお陰で、人は人に対して思いを描きます。 その思いの大半は、自分にとって都合の良いように考えると思っています。もちろん、自虐的な発想も含めてと言う意味で。

 その思いは、考えを通り越して、思い悩む所まで発展します。病的に思い悩むのです。誰に頼まれたわけでもないのに。そしてついには、憎悪にまで変貌してしまう事もあります。また、恋に落ちる事もあります。

 ただ相手を思うだけの結末が、殺人であったり、ストーカーであったり、いじめであったり、敵対心を抱いたりと、多種多様に変幻自在に変わってしまいます。

 では、ここで私は男性ですから、女性に限って話を進めていく事にします。

 男性から見る女性は、不思議な生き物です。兼好法師が思案する気持ちもよく分かります。

 なぜでしょう。よく惑わされると言いますが、その通りで理論的な解決をみないので、分けが解らなくなります。

 私の結論です。古希を過ぎてから結論を出しても、何の意味も持たないのですが、後進の為、とでも言っておきましょう。

 それは、好きになるからです。恋は盲目と言いますが、周りが見えなくなるのだと思います。正常な考えが出来なくなるのが、人を好きになる事だと思います。

 『人は、言葉を交わす直前に、好きか嫌いかを決めていると、恋愛の仕組みを研究している人がいるようです。その時間は僅か、0.5秒。脳科学者の茂木健一郎氏は0.1秒説を唱えています。』 論語を読んで見よう【雍也篇6-26】に書きましたが、これは自分の意識ではどうする事もできない、コントロール不能の世界です。

 これは、「恋」に限った事でしょうか。永年考えた結論は、違います。それは、「意識する人」に対して抱く、妄想だと思っています。

 なぜ「妄想」と思うかと言いますと、自分が理想とする偶像を作り上げてしまうからだと思っています。理想とまでは、行かなくても、自分が好ましいと思う、人柄をイメージしてしまうのです。それも、何の根拠もなく。

 茂木健一郎氏の言葉を借りれば、0.1秒で決めつけてしまうのが、人間なのでしょう。その決めつけは、なかなか覆す事ができないのです。なんせ理論的に決めた分けではありませんから、考えて直す分けにはいかないのです。

 胸に手を当てて、考えて見ると解ります。まったく意識をしていない人の事は、不思議であっても、理解不能であっても、自分とは「関りの無い事でござんす。」と、木枯し紋次郎のように、去っていく事ができると思います。すこし、引用が古すぎました。分かる人がいないかも知れません。

 特に好意をもった女性に対しては、その摩訶不思議さがピークに達してしまうのです。気にするのですから。

 先ほど、『人は、言葉を交わす直前に、好きか嫌いかを決めていると、恋愛の仕組みを研究している人がいるようです。その時間は僅か、0.5秒。脳科学者の茂木健一郎氏は0.1秒説を唱えています。』と、書いた中に、「好きか嫌いか」と書いてありますが、「嫌い」になる行程も、「好き」と同じですから、始末に負えません。

 いったん嫌いになったら、病的に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」となってしまうのでしょう。それが「いじめ」の原因であるとすれば、解決は難しいでしょうね。

 それでも、この場合は、いじめられない方法を前に書きましたが、強くなる事だと思っています。肉体的にも精神的に強くなる事です。精神的に強くなる事は、意外と難しいですが、 肉体的に強くなる事は、成果が如実に現れます。強い肉体になるに従って、精神も追随すると思っています。

 しかし、『恋』に落ちるより、人をいじめたり、人に憎悪の感情を持った時には、その関係を希薄にする事により解消できると思います。まず、距離感を遠くにする努力をすれば良いのです。

 その前に、『いじめ』や『憎悪』は、良くないと思う事が先決ですが。

 『恋』は、距離感を置くと、余計に増幅してしまいます。理由は簡単です。しかし、『いじめ』や『憎悪』は、『嫌いな人』ですから、逢いたくない人と距離感を持っても、逢いたくないのですから、気持ちはそれで収まります。

 逢いたい人に逢えない場合は、離れれば離れるほど、気持ちは募るばかりです。

 兼好法師が言うように、『たゞ迷ひをあるじとしてかれに隨ふ時、やさしくもおもしろくも覺ゆべきことなり。』と迷う心に身を任せるのも、一興かと思う事にすればどうでしょう。これも、ほどほどに・・・・。

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