今日の文字は『相応そうおう 』です。分相応の相応です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百十三段』を読んで見て、感じた文字です。
原文
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相応
★『そこまで言って委員会』(読売テレビ 2018/11/11 PM1時30分から)
「議長:辛坊治郎 副議長:渡辺真理
パネリスト 金美齢 長谷川幸洋 宮家邦彦 村田晃嗣 中田宏 竹田恒泰 丸田佳奈 IVAN」
いつものように、いくつかのテーマについて話を進めるのですが、今日はその内の「日本の『移民受け入れ』」について、宮家邦彦さん(元外交官)が、日本の国民が、経済を維持するならば、とかそんな発言をした時、これを受けて、竹田恒泰さん(明治天皇の玄孫やしゃご 、法学者)が、この「経済を維持するならば」と言うのが大切で、そこから議論すべき。との発言がありました。その意図は、経済を縮小しても日本を残すのか、それとも外国人を入れて経済を優先するのか、国民の議論があってしかるべき。
この発言は、日本と言う文化や精神の問題を言っているのですが、私は、経済発展が必ずしも国民の生活を裕福にするとは思っていません。
私が常々考えている事で、経済発展は、必ずしも国民の幸せを生むのではなく、また一人一人の使える金銭が増える分けではない事を、もっと学者は喧伝するべきだと思います。経済が発展して潤うのは、一部の経済に精通している人であり、生産に携わる人にその恩恵が回って来るとも思えません。
確かに、戦後の日本と比べて見ると、現在は確かに物質的に豊かにはなりました。しかし、途轍もなく大きな格差が出来ている事も知らなくてはなりません。人口が増えて経済が潤うと、その一部の人がほとんどの恩恵を受ける仕組みになっています。
一般のサラリーマンには、その一部しか恩恵は無いのが現状です。
残念ながら、この発議に対して、全く他のパネリストの反応はなく、尻切れトンボに終わってしまいましたが、本当に幸せな国を作りたいのであれば、人口問題を増やせば良いと言う考えから、少し方向を変える必要があると思います。
さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。
徒然草 第百十三段 〔原文〕
四十よそぢ にも餘りぬる人の、色めきたる方、自ら忍びてあらんは如何はせん。言こと に打ち出でて、男・女のこと、人の上をもいひ戲たは るゝこそ、似げなく、見苦しけれ。
大かた聞きにくく見ぐるしき事、老人おいびと の若き人に交はりて、興あらむと物いひ居たる、數ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人まろうど に饗應せんときらめきたる。
『現代文』
まず、我流で現代文にしてみましょう。
『40歳を越えた人が、色好みのように見えるのは、人目を避けての事はどうしようもないが、自らこれを披露して、男女の事や人の噂までふざけて話すのは、不適当であり見苦しい。
一般には、聞きづらく見苦しい事は、老人が若い人に交じり、場を面白くしようと話す姿。取るに足りない身で、偉い人と知り合いであると言う。
貧しいのに、酒宴を好み、来客を派手にもてなそうとするのも同じである。』
『相応』
よく私は、「分」と言う言葉を使います。このタイトルの「相応」と繋げると「分相応」となります。
物事には、「分相応」である必要があるとは、思いません。私が「分相応」を勧める理由は、生きやすい、と言う事です。愚痴や僻みが少なくなり、そして、何よりも「幸せ」を感じる事が出来ると思うからです。
ですから、ここで言われるような事は、分不相応に生きたい人は、頑張ってそういう生き方を選べば良いと思います。
昔、聡明な女性が、私より少し年配の人を見て、「早く枯れれば良い」 と言っていた事を思い出します。私も同じような年なので、そういわれないように注意していました。
たしかに、その言われた男性は、エネルギッシュで脂ぎった男性ですから、今言われているようなセクハラギリギリか、もしかしたらセクハラもしていたかも知れません。
色気づくのには、世間的には、男女ともに、年齢制限がありそうです。年甲斐もなくとか、いい歳して、と言われてしまいます。
ただこれも、分別が出来るだけで、気持ちの上では変わらないのではないかと思っています。
若い時から色を好む人は、一生同じなのかも知れないと思います。「雀百まで踊り忘れず」 と言うではありませんか。
「英雄色を好む」と言われますが、逆もまた真ではありません。しかし、一般的に英雄でなくても男性は色を好むと思います。女性の事はよく知りませんが、若い頃は男性が寄ると下ネタか女性の話と、相場は決まっていたと思います。
歳を取ると、話題はもっぱら健康に関してですが、これが枯れたと言う事なのでしょうか。
ただ私も男ですから、そんな時期もありました。でも人の話を暴露したりふざけて話題にする趣味は、無かったと思います。どちらかと言うと、悪趣味だと感じています。
ここでは、老人が若い人に媚びを売るような事が書かれていますが、これもあまり褒められたものではありません。
若い人に受け入れられる必要も、ないのではないかと、思っています。私は歳の差よりも、考え方、価値観が同じ種類であったり、同意できる範囲であれば、媚びる必要もないと思います。
私がみっともないと思うのは、今から20年程前になりますが、エレベーターに乗った時に、後で乗って来た年配者と若者の会話を聞いて、何とも聞いていられないような思いになった事があります。
話の内容を、つぶさに聞いていた分けではありませんが、年配者が敬語で、若者が必要以上に高圧的な受けごたえでした。多分若者の方が、会社の中では上司なのでしょう。
特に儒教の影響が強い訳でもないのですが、やはり年配者を敬う気持ちも必要で はないかと思いました。
ですが、自分の事を振り返って見ますと、年配者に対する畏敬の念が欠落していたと思います。今考えると、なんと不遜な若者だったように思います。それでも、このエレベーターの若者には及びません。
時代と言ってしまっても良いのでしょうか。確かに会社での上下関係は必要だとは思いますが、ここまで、年配者も遜へりくだ る必要があるのでしょうか。また、ここまで若者も横柄な態度を取って、恥ずかしいとは思わないのでしょうか。
私が言うと、先輩方から、お前が言うな。とお叱りを受けそうです。
この段では、もう一つ兼好法師は書いています。それが最も「不相応」 な事で、「背伸び」 とでも言いますか、これは、金銭的な事だけでなく、話しをしていても、やたらと難しい言葉を使ったり、横文字を多用して、自分を高く見せる事になっきになっている人を見ます。
これは、逆効果である事を知らないのでしょうか。お里が知れると言うのか、底が見えてしまいます。
これが金銭的な事で背伸びしている人を見ると、哀れさを感じてしまいます。
どちらも、板についていない言動は、みっともないと思います。
逆もあると思っています。兼好法師の考え方では、知っていても口にしない方が、奥ゆかしいと書かれていますが、私は、知っている事は素直に言えば良いと思います。
もちろん、これ見よがしでは品性を疑いますが、金銭的に余裕のある人が、しいてケチなのも見ていて見苦しいと思います。
今まで、人にさんざんご馳走になってきましたから、私の知っている人は、少なくともケチな人はいませんでした。