文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【131】

スポンサーリンク

 今日の文字は『学問がくもん』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百三十段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 学問

 

『「北方領土は日本固有の領土」と言えない河野外相が不安だ』
(「週刊文春」編集部 2018/11/29 07:00)

 「北方領土をめぐる河野太郎外相(55)の発言が大きな波紋を呼んでいる。11月22日の記者会見で「北方4島は我が国固有の領土とお考えか」と問われた際に「政府の考えを申し上げるのは一切差し控えたい」と答えたからだ。

 外務省担当記者が語る。

「2島返還論に傾く安倍首相の1月訪ロを控えて口をつぐんだのでしょうが、外務大臣が北方領土を『固有の領土』と言えないなど前代未聞です」

 毎年2月7日の「北方領土の日」に行われる北方領土返還要求全国大会には、もちろん河野外相も出席していた。

「河野外相は『日ロ平和条約締結は祖父・一郎の世代から引き継いだ最も重要な外交課題』と語ったうえで、『北方領土は我が国固有の領土。4島にかける国民の想いを明確に示し続けることが重要』と断言していた」(同前)

 だが日ロ交渉で、外務省は蚊帳の外に置かれている。

「安倍首相の懐刀・今井尚哉秘書官を中心に官邸が進めています」(政治部記者)

 秋葉剛男外務事務次官も官邸外交の駒の一つのような扱いで、先のシンガポールでの日ロ首脳会談に同席させられたことを指し、同省関係者は「次官も官邸に取り込まれた。情けない」と嘆息する。

—–後略

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2018年12月6日号)」

 政府が今何をしようとしているかは分かりません。しかし、先日国会中継を視聴していて、日本の国は、手の内を全て国内外に見せたうえで交渉をしないといけないのでしょうか。

 交渉というのは、単なる会議ではありませんし、双方利害関係があるから、交渉するのだと思います。ですから、交渉前に手の内を全て公表して交渉にあたると言うのは、まるでトランプゲームで自分だけ相手に見えるようにカードを開いて、相手は隠してゲームをしているのと同じだと思います。

 この記事もさることながら、先日の国会では、野党が必要に政府に手の内をさらけ出させるよう、求めているように思いました。

 日本人は、今のところ、日本の国に住む日本人の集まりで、他の国からの精神的、物質的に攻撃を受けているのです。

 今のところ、国際社会では自国の利益、国益を優先しながら、如何に他国と仲良くしようとしているのが、国際的な付き合い方です。これは、冷戦が終わった1990年以降も同じです。

 私は、この状態を片手に短刀を持ち相手に向けながら、片方の手で相手と握手しているような関係だと、常々思っています。本当に緊張する状態です。

 ところが、日本人は、仲良くなると言う事は、片方の手にナイフを持たない事をイメージします。できれば両方の手を握り合いたいのが日本人の付き合い方だと思っていると思います。

 この考え方を良しとする諸外国もあるとは思いますが、大半は、気を許すとチャンスと捉えるのが国際ルールと思っていると思うのです。

 そんな大事な交渉事を政府に任せなければならない、不安な気持ちは分かりますが、これが民主主義、議院内閣制ですから、選挙で国会議員を選ぶときには本当に慎重になる必要があります。

 ただ、前にも書きましたが、今の選挙制度では、選ぶ人の氏素性も解らないまま、一票を投じなければなりません。これが選挙と呼べるのでしょうか。

 そして野党も日本人に選ばれた議員であることを、忘れないようにしてもらいたいと思います。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百三十段 〔原文〕

 物に爭はず、己をげて人に從ひ、我が身を後にして、人を先にするにはかず。

 萬の遊びにも、勝負を好む人は、勝ちて興あらむ爲なり。己が藝の勝りたる事を喜ぶ。されば、負けて興なく覺ゆべきこと、また知られたり。我負けて人を歡ばしめむと思はば、さらに遊びの興なかるべし。人に本意なく思はせて、わが心を慰めむこと、徳に背けり。むつましき中にたはぶるゝも、人をはかり欺きて、おのれが智の勝りたることを興とす。これまた、禮にあらず。されば、はじめ興宴より起りて、長き恨みを結ぶ類多し。これ皆、争ひを好む失なり。

 人に勝らむことを思はば、たゞ學問して、その智を人に勝らむと思ふべし。道を學ぶとならば、善に誇らず、ともがらに爭ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辭し、利をも捨つるは、たゞ學問の力なり。

 

 
スポンサーリンク

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『物事を争わず、己を曲げて人に従い、自分の事は後回しにし、人に先を譲る考えは最も良い。

 色々な遊びでも、勝負を好む人は、勝って喜びたいためである。自分の技術が優れている事を喜ぶ。だから、負ければ興ざめするのは当たり前である。自分が負けて人が喜ぶと思うと、ますます遊びが面白くなくなる。人に残念だと思わせて、自分の気持ちを晴らすのは、人徳に背く。

 親しき中でふざけるのも、人を計略にかけて欺き、自分の智略が優っている事を喜ぶ。これもまた礼儀に反する。
 それゆえ、初めは宴席での座興のつもりが端を発して、積年の恨みになる事も多い。これは全て争いを好む弊害である。

 人より勝ろうとするならば、ただ学問をして、その学識で人に勝てば良い。道を学ぶなら、すぐれている事を誇らず、仲間と争わないと言う事を知る。上位の役職も辞し、利益を捨てられるのも、ただ学問の力である。』

 

 

『学問』

 兼好法師の時代は、学問と言うのは人格も育ててくれたのでしょうか。

 もしかしたら、現在は学ぶ事が多すぎて、細分化されてしまい、人格まで教育の力が及ばないのかも知れません。

 冒頭の部分『物に爭はず、己をげて人に從ひ、我が身を後にして、人を先にするにはかず。』は、「日本空手道髓心会」のホームページに発会当初から勝つことを目的とせず、豊かな人生を送るための、心と体の基礎を培ってもらいたいと考えておりました。その願いは、今も変わらないところです。」と書きました。そして、松濤館流創始者、船越義珍師の言葉『謹慎謙譲空手道最大の美徳』そのものであると思います。

 私が競争を嫌うのは、勝つから負けるからと言ったものではありません。競争が行き過ぎると、折角の人生を台無しにしてしまう要素があると思うからです。

 もちろん、競争には悪い面だけではなく、良い面もあるのは認めています。向上心であったり、工夫する気持ちであったり、粘り強さや、努力し継続して物事を達成したり、色々有益な事はあると思っています。

 しかし、反面勝ち負けを競う余り、人間としてもとるような事も欲するようになると思っています。

 スポーツの世界でいう、ドーピングがその例ですが、そこまで行かなくても、勝つための工夫が行き過ぎるのが人間の欲だと思います。

 単に、技術的に向上しようとか、肉体を鍛え上げる事は、良いのですが、技術的に、あるいは肉体に限界を感じると、ずるい事を考えてしまうのが、人間の性なのかも知れません。

 これが行き過ぎると、競争心の歯止めになるはずの、ルールまで変更して勝とうとすると思われます。

 久しぶりに、と言うか、初めてかも知れませんが、兼好法師の観察力の鋭さに感じ入ってしまいました。さんざんけなして置いて、流石と言う言葉は、適して居ないと思いますが、褒めずにはいられません。

 私に褒められたくもないと思いますが、勝負だけでなく、遊びや冗談、酒の席での、意識的な言動でなくても、勝ち負けを考える人間の愚かさを、実に見事に洞察していると思いました。

 もちろん、意識的に人よりも優位に立とうとして、たわいもない事にも勝とうとする人もいますが、 自分では気付かずに相手よりも優位に立とうとするのが、人間かも知れません。

 前にも記述しましたが、 「ジョハリの四つの窓」と言う自分自身を四つの窓、すなわち、(1)自分も人も知っている自分、(2)自分しか知らない自分、(3)他人が知っていて自分が知らない自分、(4)他人も自分も分からない不可解な自分を、四つに分けて自分を見つめようと言うものです。

 この中で、自分も他人も知らない自分は、一般的には、どうしようもないのですが、他の窓は努力によって大きく小さくなると言うものです。

 ここで一般的と書きましたが、自分も他人も知らない自分、を見つめようとするのが、座禅の意義だと思っています。私が言う『髓心』にも、自分を知る方法があります。これについては、 髓心とはを参照してください。

 争いの元を断つのは、学問であると、兼好法師は言っているのですが、冒頭に述べましたように、学問が人格も作ってくれるという条件付きです。

 現在では、学問ができるから、学力があるから、学歴が高いからと言って、人格や徳と結びつかないのが現状です。結びつくと言うよりも、逆に離れるのではないかと思うほどです。

 私は、勝負をするのであれば、堂々と勝つ必要があると思います。しかし、これはあくまでも人間としてルールの下で戦う場合です。

 しかし、武術として考える勝負は、負ければ死を意味します。誤解を恐れずに言えば、この戦いは、正々堂々と戦う必要は無いと考えます。

 宮本武蔵のようにあくまでも、勝ちに拘れば良いのです。そこにルールはありません。このような戦いには、覚悟がいります。

 まず人間を捨てなければなりません。命のやり取りは、現在では、人間の取るべきものでは無いと思っています。

 だからこそ、争いを好まない武道を推奨しています。しかし、稽古は真剣に、無心の前の一心になるよう心がけます。

 非常に矛盾した考えと思いますが、一生の間に戦う事は、避ける思想を持ち、悪戯に競争の精神を養わない事を肝に命じます。

 歴史を見ると避けられない戦いも、人間にはあるようです。それでも戦わないとならない場合は、人にあるべき姿では無い事を、十分解った上で、覚悟をしないとならない、という事です。

 学問で、このような争いが人間に悖る事であると言う事を、徹底的に教える事ができれば、争う事もなくなると思います。ここで私が言う学問は、現在行われている教育ではない事は、言うまでもないと思います。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です