文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【145】

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 今日の文字は『誤解ごかい』です。書体は草書です。ちょっと崩し過ぎて読めないですよね。私もです。字典を見て書きました。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百四十四段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 誤解

 

『慰安婦・徴用工の「強制」表現めぐり炎上 ジャパンタイムズが叩かれたワケ』
(ITmediaビジネス 2018/12/13 07:40)

「—–前略‐—-
今、「ジャパンタイムズ(The Japan Times)」が海外で話題になっている。
—–中略‐—-
例えば、香港のサウスチャイナ・モーニングポスト紙は、日本の共同通信による英字記事を掲載している。その見出しは、少し長めだがこんなものだった。「ジャパンタイムズが戦時中の『慰安婦』について、安倍晋三首相の考え方に沿って編集指針を変更したという指摘を否定した」

 言うまでもなく、「慰安婦」に関する問題は非常にセンシティブな話だ。
—–中略‐—-
 まずは事の顛末(てんまつ)を見ていきたい。

 既出の共同通信記事によれば、ジャパンタイムズは11月30日、徴用工問題の記事の下に編集注記を掲載。そこにはこう記されていたと報じている。「徴用工問題で『forced labor(強制労働)』の文言を使うことは誤解を招く可能性があるとして、今後は『wartime laborer(戦時中の労働者)』とし、慰安婦問題でも『強制的に働かされた』としてきた説明を『意思に反して働いていた者も含まれる』との記述に変更するとした」(12月7日付共同通信の日本語記事から抜粋)
—–中略‐—-
 あらためて言うが、日本人に向けた編集注記ではない。英語読者または国外向けに、これまでの方針を変更すると宣言したのである。
—–中略‐—-
 さらに、米国、英国、ドイツなどの海外の英字メディアがこの件を取り上げたことで、国外で話題になった。

●批判の声ばかり取り上げる海外メディア

 海外の英字メディアの記事はどれも、ジャパンタイムズにとって辛辣(しんらつ)なものだった。英ガーディアン紙は、「『全てのニュ-スを恐れず、おもねることなく』というのがモットーだというジャパンタイムズ」と皮肉を込めて書き、「スタッフや読者の間で怒りが巻き起こっている」と指摘。
—–中略‐—-
 ただこれらの記事は、ジャーナリズムとして見ると中途半端だと言えなくもない。もしかしたら偏っていると言ってもいいかもしれない。ガーディアンは「評論家たち」という言い方で「批判が起きている」と報じているが、記事には評論家のコメントは出てこない。この「評論家たち」が誰なのか分からない。
—–中略‐—-

●釈明と謝罪に追い込まれた

 繰り返すが、どの記事もジャパンタイムズに批判的で、日本政府が「歴史を修正しようとしている」という前提で記事が書かれている。今回の変更で、ジャパンタイムズの思惑がどこにあるのかは分からないが、少なくとも、この変更を告知したために、日本が歴史的な事実をねじ曲げようとしているという印象がまた世界に広く報じられたことは間違いない。
—–中略‐—-
 個人的には、編集委員など一部の人たちが歴史あるジャパンタイムズの方針を、社員への事前報告や徹底した議論もなく、こういう形で発表してしまうことに、謝罪文を出した編集主幹などの傲慢(ごうまん)さを感じてしまう。

 他人の会社のことをとやかく言うなという声もあるかもしれない。ただジャパンタイムズは、日本最古の英字紙であり、世界へ日本の情報をきちんと伝えるメディアと評価されてきた新聞でもある。元読者として、その自覚が薄れているのではないかと声を大にして言いたい。

●「英語で日本のニュースを読む」読者像とは

 どういうことかというと、英字メディアであるジャパンタイムズは、主要な読者層が日本の情報を英語で読む人たちだ。つまり外国人が読む記事であり、英語で発行される著名な新聞と同等のクオリティーが求められる場合が多い。また日本語を読む人たちが圧倒的に多い日本と比べて、英語で新聞記事を読む人は世界に広がっており、多種多様であり、日本人相手の新聞よりも「中立性」「バランス感覚」が求められる。

—–中略‐—-
 ちなみに既出のNPRの記事には、今回の変更によって、今後はジャパンタイムズの表現が以下のように変わると書いていた。「これまでは『第2次大戦前や戦中に、日本兵のために強制的にセックスを強いられた女性たち』と定義されていたものが、変更後は次のように使われるようになる。『戦時中の慰安所で働かされた女性たちで、その中には自分たちの意思に反して働かされた者も含む』と」

 実のところ、筆者はどちらかと言えば、後者の言い方に賛成だ。そのほうが前者の意味も含むことができると思うからだ。しかし、筆者のこの感覚が本当に正解かどうかは、100%の確証を持てないでいる。なぜなら、後者の言い方が間違っていると感じる人たちが世界にはいるからだ。
—–中略‐—-

 まずはいま一度、謙虚にジャーナリズムについて見つめ直すべきではないだろうか。

(山田敏弘)」

 少し長い引用になってしまいました。しかし、これ以上削ると、記事の内容が伝わらないと思い、載せて見ました。

 なぜ、こんな問題を載せたかと言いますと、歴史的な問題にしても、韓国の日本への接触の仕方にしても、なんだかスッキリしない、納得できない事が平然と起きる理由が分からなかったのです。

 上記の記事の最後の方に、この記事を書いた山田敏弘さんが「後者の言い方が間違っていると感じる人たちが世界にはいるからだ。」と書いているところに目が言ったからです。

 マスメディアは、正しい事を正しいように報じるのでは、商売が成り立たないのかも知れませんが、ジャーナリストとしての誇りは無くなってしまったのかも知れません。

 この山田敏弘さんが言っているように、「筆者のこの感覚が本当に正解かどうかは、100%の確証を持てないでいる。」と書いていますが、感覚がどうかよりも、真実を追求してもらいたいと思います。 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百四十四段 〔原文〕

 栂尾の上人 道を過ぎたまひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」といひければ、上人たちとまりて、「あなたふとや。宿執しゅくしゅう開發かいほつの人かな。『阿字々々』と唱ふるぞや。いかなる人の御馬ぞ。あまりにたふとく覺ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生ふしょう殿の御馬に候」と答へけり。「こはめでたきことかな。阿字本不生あじほんふしゃうにこそあなれ。うれしき結縁けちえんをもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。

 

 
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『現代文』

『栂尾の上人 が道を通り過ぎられた時、河で馬を洗う男が「あしあし」と言うので、上人が立ち止まり「ああ、尊いことだ。前世での善い行いが、現世で好ましい結果をもたらした人だ。『阿字々々』と唱えるとは。どんな人の馬なのか。あまりにも尊く思える。」とお尋ねられると、「府生ふしょう殿の御馬でございます」と答えた。「これはめでたい。阿字本不生あじほんふしゃうと言う事だな。うれしい仏縁を結ばれたものだ。」と言って感激し涙を拭われたと言う事である。』

【参照】
阿字本不生あじほんふしゃう:密教の根本の教えで、万法の根元である「阿字」には、すべてが「不生(ふしやう)(=不生不滅)」すなわち空であるという「本(=根本)」の真理が表されていること。「あじほんぶしゃう」とも。
(出典:学研全訳古語辞典 学研.)

 

 

『誤解』

 これを、聞き間違いとするのは、失礼なのでしょうか。

 馬の足を洗っている時に「足足」と言っているのを『阿字々々』と捉えるのは、誤解ですね。そして、「府生ふしょう殿の御馬に候」を「不生ふしょう」と聞こえたのは勘違いでしょう。いや、誤解かも知れませんが。

 こんな間違いはしないとは思いますが、物事に傾倒していると、そんな事もあるかも知れません。

 まだ私が車に乗っていた頃ですが、町を走っていると、「空家」と言う看板を見ると、「空手」と言う文字に見えた事が、度々ありました。

 傾倒する事には、良い事と悪い事の二つの事が起こります。傾倒すると言う事は、物事に没頭する事ですから、一生懸命になります。

 これは、私が「無心の前の一心」と呼んでいる状態で、その目的が信じた方向であれば、良い結果を生みます。

 しかし、没頭するあまり、回りが見えなくなり、良いチャンスを逃してしまうかも知れません。

 恋は盲目と言いますし、「心」「変」になる事と言う人もいます。

 心と言うものは、自分自身でありながら、コントロールしずらいものです。ここで言われているような勘違いではあれば、問題はないと思います。しかし、勘違いや聞違いが元で、大きな禍に発展してしまう事もあります。

 この段で言われたのは、同じ言い方なので、誤解も招きやすいのですが、言葉を最後までよく聞くと、聞き間違いにはならないと思います。

 上人は最後まで聞いていても、初めに『阿字々々』と思ってしまったので、固定概念に囚われてしまったのでしょう。

 この固定概念を取り去り、客観的にものを見直す事を習慣にしておかないと、社会においても会社での仕事でも、特に没頭していると、間違いを犯します。

 私は、これを空手の組手の中から気付く事ができました。攻撃する事ばかり、受ける事ばかりに集中してしまうと、周りが見えなくなります。

 そんな時に、「間」を意識的に取るのです。この場合の「間」は、タイミングと相手との距離の両方です。ようするに、相手が攻撃しても、自分が攻撃しても、効果の無い距離とタイミングです。

 ようするに、制空圏外に身を置く事です。これは単に距離だけではなく、精神的に俯瞰できる余裕が持てる場所の事です。

 すると、今まで見えなかった事が客観的に見えるようになります。

 仕事で言えば、一息入れる、一服する、あるいは気晴らしをする。なんでも良いのですが、 没頭している頭を冷やすのです。

 そうすると、にっちもさっちも行かなかったことが、簡単に打開できる事もあるのです。

 膠着状態から一気にチャンスに変わるかも知れません。

 誤解や勘違いも気付かないと「心」「変」になっているのと同じです。ただ、「お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ」と言いますから、これだけは、別かも知れません。

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