文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【227】

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 今日の文字は『忘却ぼうきゃく』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二百二十六段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 忘却

 

☆『厚労省の組織風土を総務省が指弾 賃金統計不正で報告書』
(共同通信社 2019/03/08 10:35)

 「厚生労働省による賃金構造基本統計の不正問題で、背景などを調べた総務省は8日午前、報告書を公表した。長年にわたる不正は「事なかれ主義のまん延」や「順法意識の欠如」という厚労省の組織風土が根底にあると分析。統計の担当部署は問題があっても幹部に情報が集約されず、部下に適切な指示が下りない「機能不全」に陥っていると指弾した。

 石田真敏総務相は記者会見で「ガバナンス(組織統治)の問題に対し、論点を整理した。厚労省で再発防止策を講じてもらいたい」と述べた。

 賃金構造統計の不正は1月に発覚。厚労省の内部調査では中立性が保てないとして、総務省が事実関係を調べた。」

 不正と言うと、悪い事をしようとした悪事のように聞こえるのですが、私は、ここに書かれてある「事なかれ主義のまん延」や「順法意識の欠如」にまでも意識が行っていないと思っています。いわゆる「お役所仕事」と言われるものです。

 「お役所仕事」も、一方では、融通の利かない型にはまった事しかしない。と言うような言われ方もしますが、私は役所にいる人の大半は、生活の安定を主軸において働いていると思います。

 別にそのこと自体は生き方の範疇ですから、問題ありません。ただ、自分たちの仕事によって、国を動かしてしまう事に問題があると思っています。ですから、「事なかれ主義のまん延」や「順法意識の欠如」のような、まん延や欠如と言った、根本は問題意識もあり、法律を守ると言った意識があるような言葉では、違和感を感じてしまうのです。

 ですから、今回の場合は、不正ではなく、間違っていると言う意識もなかったと考えます。これを是正するためには、自分たちの仕事に対する責任の持ち方、影響の深さを、入所当時から叩き込まなければ、きっとまた同じ方向に行ってしまうように思います。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二百二十六段 〔原文〕

 後鳥羽院の御時、信濃前司 行長 稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。

 この行長入道、平家物語を作りて、生佛しょうぶつといひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。

 
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『現代文』

『後鳥羽院の治世の時に、信濃前司 行長 は、学問で名声が高かったが、漢詩の形式について天皇の前で議論する中に選ばれ、七徳の舞の内二つを忘れてしまったので、五徳の冠者とあだ名された事を情けなく思い、学問を捨てて遁世した。慈鎮和尚じちんかしょうは一芸のある者であれば召使までもそばに置いていたので、 信濃入道を気の毒に思い、守り支えた。

 この行長入道は、平家物語を作り、生仏しょうぶつという盲目の者に教えて語らせた。なので、山門[比叡山ひえいざん延暦寺えんりやくじ]の事を、殊更に詳しく書いたのである。九郎判官義経の事は詳しく知っていたので書き載せた。蒲冠者範頼のことは、よく知らなかったのだろうか、書き洩らしている事が多い。武士の事・弓馬のわざは、生仏しょうぶつが東国の出身なので、武士に聞いて書いた。この生仏しょうぶつがうまれつきの訛りを、今の琵琶法師は学んでいるのである。』

 

 

『忘却』

 この徒然草をもとに、平家物語の作者信濃前司行長と言うのは、あくまでも徒然草のこの段が最古の記述であるという観点からだと思います。

 平家物語が書かれた時期も定かではありませんが、少なくとも藤原定家の写本が、兼好法師が生まれる40年以上も前に書かれていますので、平家物語が出来たのは、それ以前であったと思われます。

 ですから、兼好法師がこの事を誰かに聞いているのですから、誰と言う事も明白ではありませんので、その信憑性も疑わしい物です。

 ここでも、一つは、学問に秀でた人が失敗をして遁世したと言う事。そして、その遁世した人の才能を認める人が生活の面倒を見た。と言う事を誰かから聞いたのでしょう。

 そして、兼好法師は、平家物語を書いた人物である事も、誰かから聞いたか、当時はそう記されたものが残っていたのかも知れません。そして、他の文献と比較すると、蒲冠者範頼は書き漏れが多く見付けられたのでしょう。

 さて、蒲冠者範頼の事は、どこに記載されていたのでしょう。史実と言うものは本当に難しいと思いました。

 また、平家物語も部分的には、生仏しょうぶつという盲目の者が、集めた情報を元に書いたのかも知れません。

 兼好法師は、現在「平家物語」を語っているのは、東国の訛りで教わっていると言っていますが、これが揶揄した言葉なのかも、この文章からは分かりません。

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