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今日も松濤二十訓の中から「形は正しく実戦は別物」と言う言葉を書いて見ました。ひらがなの部分は変体仮名を用い、漢字は草書で書きました。
ここで言われている『形』は、私はフォームであると理解しています。
巷では、私が言っている『型』を『形』と言っているようですが、私は形の集まりが型と思っています。人それぞれなので強要はしたくありませんが、私は頑固と言われても『型』と『形』を分けています。
また、富名腰義珍翁の遺された『空手道教範』にも、『型』と表記されています。
さて、本題に戻ります。ここで言われている『形』をフォームとして見た場合、あくまでも形は習った通りに正確にする必要があると思います。
しかし、これも人が見て正しいと判断しているだけですから、何年やっても習った通り出来ないとしたら、これは、個性と言うものだと思っています。
個性が顔を出すまで、しっかり習った通りにやった方が良いと思います。初めから、個性を前面に出さない方が上達すると思うのですが。
また、『実戦』は別物と言うのは、自分のやり方、また習った方法に拘った考えは、居着きになるので気を付けましょう。と言うより、身についた事は、それを棄て去ると自然に出てくるものと思っています。
柳生石舟斎宗厳(柳生 宗矩の父)の歌に「斬り結ぶ 太刀の下こそ地獄なれ 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 」と言うものが脳裏に残っています。
「五輪書」から学ぶ Part-34【水之巻】秋猴の身と云事[ ]にも書きましたが、武蔵の言葉と言う説もあります。私は石舟斎の歌だったと記憶しています。すこし、ニュアンスは違いますが、究極の状態では、学んだことが出るのでは無いでしょうか。
やはり、ここでも『無心』が必要でしょう。
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