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今日も松濤二十訓の中から「道場のみの空手と思うな」と言う言葉を書いて見ました。
この一条は、私にとっては当然の事でした。競技空手が隆盛を誇っている昨今ですから、道場をジムだと思っている人も居るでしょう。
しかし、私が道場に通っていた頃は、稽古の成果を試す場所であった気がしています。
一生懸命、朝はお寺の境内で、昼は大学の屋上で身体を動かして、道場にいってその成果を試していたと思います。
ただ、この一条の意味は、そんな事ではなく、行住坐臥、一日中空手を通して生きる、すなわち、空手を手足を動かす些末な事ではなく、人生を通して空手道を活かす。そんな意味だと思っています。
「凡ゆるものを空手化せよ 其の処に妙味あり」と同じように、空手以外のもの、道場以外の時にも、常に空手が軸にある、そんな考えでやってきました。
私の人生がその意味する通りに行ったかは、今も疑問のままです。
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