文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【142】

 今日の文字は『柔和にゅうわ』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百四十一段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 柔和

 

『カンニング竹山、上沼恵美子への暴言問題で「ビビット」の報道姿勢に苦言「ネットと同じことしている」』
(スポーツ報知/報知新聞社 2018/12/10 08:55)

 「—–前略—–
1週間、この話題でどうなんだどうなんだってなった。
—–中略—–
 この発言に国分も「上沼さんも松本さんも発言したので、そこで終わりだと」と同調すると、竹山は「昨日で終わりだろと。テレビという大きなメディアなのに、インターネットと同じことをして、どうするの」と発言した。
—–後略—–」

 昨日は、公益社団法人 全日本空手道連盟主催の天皇盃・皇后盃 第46回全日本空手道選手権大会のテレビ中継を見ていました。この話題を取り上げたいのですが、部外者は静かに見ている事にしました。

 で、今日取り上げたのは、暴言をネットで流すなんて、いくら飲んでいたからと言って、やっていい事と悪い事があります。もし、文句があるなら、本人に言えば良いと思います。陰口がこれだけ公になったら、陰口ではなくなり、場合によれば、名誉棄損で訴えられてもおかしくありません。

 と、ここまで書いて、私の言いたい事がズレているのに気が付きました。軌道修正します。カンニング竹山さんに同調する分けではありませんが、これでこの番組がカンニング竹山さんを降板させなかったら、自浄作用と言えますね。

 何でも口外しても良い時代かも知れません。随分前から思っている事ですが、お笑いや芸を売り物にしている人は、ちょっと世間的に賢さを見せたりすると、途端に色せるように思います。

 才能もあり、賢い人と言うのは、言わなくても解っています。敢えてそれを言ってしまうと、その人のセンスを疑ってしまいます。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百四十一段 〔原文〕

 悲田院ひでんいん尭蓮上人ぎょうれんしょうにんは、俗姓は三浦のなにがしとかや、ならびなき武者なり。故郷の人の來りて物がたりすとて、「吾妻人あずまびとこそ、言ひつることは頼まるれ。都の人は、言受けのみよくて、實なし」といひしを、聖、「それはさこそ思すらめども、おのれは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて心やはらかに情あるゆゑに、人のいふほどの事、けやけくいなびがたく、よろづえ言ひはなたず、心弱くことうけしつ。いつはりせんとは思はねど、乏しくかなはぬ人のみあれば、おのづから本意通らぬこと多かるべし。吾妻人は、我がかたなれど、げには心の色なく、情おくれ、偏にすくよかなるものなれば、初めより否といひて止みぬ。賑ひ豐かなれば、人には頼まるゝぞかし」と、ことわられ侍りしこそ、この聖、聲うちゆがみあらあらしくて、聖教しゃうぎょうのこまやかなる理、いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心憎くなりて、多かる中に、寺をも住持せらるゝは、かく和ぎたるところありて、その益もあるにこそと覺え侍りし。

 

 

『現代文』

悲田院ひでんいん尭蓮上人ぎょうれんしょうにんは、俗姓は三浦の某とかいった、たぐいない武者である。故郷の人が来て話をした「関東の人の言う事は信頼できる。都の人は受け答えは良いが真心がない」と言うのを、聖は「あなたはそう思うのでしょうが、私は都に長く住んで馴れて見ると、人の心が劣っているとは思いません。おしなべて心が柔和で情があるので、人が言う事を、きっぱりと否定できず、何でもはっきり言わず、優柔不断に答えます。嘘をついているのではなく、貧しくて、自分の思うようには意思が通らない事が多い。関東は自分の故郷ですが、実際情がなく、武骨に片寄り、初めから、否定してしまいます。しかし、繁栄して豊かなので、人から頼りにされているのです」と説明された。この聖、アクセントは訛りがあり粗雑で、仏典の精細な道理を弁えないのかと思ったが、この一言があった後は、奥ゆかしく思い、沢山僧がいるのに、寺の管理運営を行う住持になられたのは、その穏やかな人柄のお陰と思った。』

 

 

『柔和』

 この時代から、関東と関西の言葉の使い方によって、その地方の人の性格まで違っていたのかと思いましたが、 経済的な理由もあったのですね

 確かに言葉によって、受け取り方も違うと思います。私などは、自分の事は棚の上に置いて、人が言う言い方に、いつも心が穏やかではなくなります。

 たとえば、返事の仕方で、「うん」と言われると、途端に腹立たしくなります。これは、いい大人の使う言葉ではないと、論理的に思う事もありますが、「うん」の言葉にどうしても、人を見下したように感じてしまうのです。今で言う上から目線とでも言うのでしょうか。

 私は関東、関西ではなく、その人の育ち方だと思います。確かに上辺だけ聞くと、関西からみると、関東の言葉は、きつく感じますが、この僧侶のように馴れると、そうでもありません。

 逆にここで言われているように、関東の人から関西弁を聞くと、何ともはぐらかされているようで、「はっきりしなさい」と言いたくなると思います。

 私は、江戸っ子と言われる人との付き合いもありましたが、関西人以上に情もあり気持ちも細やかに、人に気を使うと思いました。

 個人的な気持ちに過ぎませんが、現在、東京は関東、すなわち江戸っ子の住む町ではないと思っています。

 色々な地方から集まった共同体で、 標準語と言う、どの地方で育っても通用するような共通の言葉で、ビジネスができる環境が出来上がっているのだと思っています。

 これは、関西でも同じで、大阪などは、私の子供の頃とは、まったく言葉も違ってしまい、私なども、もう昔の言葉を使う事も出来ません。

 コミュニティなどと言って、いくらイベントなどをしても、心の繋がりに至らないのは、言葉にあるのかも知れません。

 心の機微を表現するには、地方に根付いた方言が、大きな役割を果たしてきたのかも知れません。

 折角長い歴史を通して培ってきた方言。短期間に消えてしまったように思います。