文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【237】

 今日の文字は『悪戯いたずら』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二百三十六段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 悪戯

 

☆『19日閣議決定「体罰禁止」で賛否 心愛さん父「4度目の逮捕」』
(FNN.jpプライムオンライン 2019/03/18 17:32)

「虐待が相次ぐ中、日本でも親による体罰禁止の動きが加速。
千葉・野田市で、当時小学4年生だった栗原心愛(みあ)さん(当時10)が、しつけと称した虐待を受け死亡した事件から、およそ2カ月。
警察は18日、父親・栗原勇一郎容疑者(41)を、2019年初め、心愛さんを立たせ続けるなどした強要の疑いで再逮捕した。
父親の逮捕は、これが4度目。
2018年3月には、東京・目黒区で、当時5歳の船戸結愛ちゃんが死亡するなど、親の虐待による悲劇は相次いでいる。
その拡大を防ぐため、19日閣議決定される、親による体罰の禁止を盛り込んだ「児童虐待防止法」などの改正案について、18日、自民・公明両党の幹事長らが会談。
今国会での成立に万全を期す方針を確認した。
体罰を法律で全面的に禁止している国は、現在、世界で54カ国。
その数は増加している。
この週末、FNNが実施した世論調査では、親による体罰を法律で禁止したほうがいいと思うかという質問には、半数を超える人が「禁止したほうがいい」と回答(55.9%)。
およそ3割の人は、「禁止しない方がよい」と答えた(31.3%)。
一方で、虐待としつけについて明確に線引きすることはできると思うか、という質問では、「できる(45.5%)」、「できない(44.9%)」、それぞれの答えが拮抗(きっこう)した。
難しい、しつけと虐待の線引き。
今後の争点の1つになるとみられる。」

 現在は、どの分野でも、徹底的に暴力を排除する傾向にあります。個人的に、自分が暴力によって躾けられるのは、実に沢山の人から暴力によって躾けられたので、悪いとは思っていません。

 しかし、私は、両親から暴力を受けた事はありません。私が子供に対して暴力を振るった事は、・・・記憶にはありません。

 弟子に対しても、自分では無いと思っていますが、足を引っかけて倒す事は、私にとっては暴力とは思っていないのですが、やられた者がそれを暴力と感じる場合もあるかも知れません。いや、やはり今では暴力に等しい行為だと思います。

 私は、躾けは、必要な事だと思います。なぜ躾けをするのか、という事を躾ける人も躾けられる人も、共通の意識を共有する必要性を感じています。

 やみくもに、躾ける人の立場が、躾けられる人の立場より上である、と云う時代ではなくなったように思うのです。

 躾ける人の感情によって左右される暴力と云う手段は、やはり考え直すべきでしょう。

 なぜ躾が必要なのかを社会全体で考え、その躾の仕方も考えるべきだと思います。

 私は、躾けは社会に適応するための智慧だと思っています。ですから、躾けられる人は、学校教育以上に、社会人になるための、最低限必要なマナーだと思っています。決して躾ける人の身勝手な理由ではない事を、躾ける人に躾けなければいけないと、思います。

 ですから、卵が先か鶏が先かではなく、親になる人にしっかり、躾けの意味を解らせる事が第一条件だと思うのです。

 今、問題になっている虐待は、大方が自分の気に入るようにしようとする、身勝手な行動だと思うのです。

 そのマナーが身に付いているのと、ついていない人では、生き方に違いがでると思います。

 躾が行き届いて身に付いている人は、社会生活を窮屈に感じないのではないでしょうか。

 また、法律やルールも理不尽に感じる事はないのではないでしょうか。その必要性が身に付いてから、大人に、そして社会人になるのですから。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二百三十六段 〔原文〕

丹波に出雲といふ所あり。大社おおやしろを移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかやしる所なれば、秋のころ聖海上人しょうかいしょうにん、その外も、人数多あまたさそひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて、具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。御前みさきなる獅子・狛犬こまいぬ、背きて、後さまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原とのばら、殊勝の事は御覧じとがめずや。無下なり」と言へば、おのおの怪しみて、「誠に他にことなりけり。都のつとに語らん」など言ふに、上人なほ床しがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官じんがんを呼びて、「この御社みやしろの獅子の立てられやう、定めて習ひあることに侍らん。ちと承らばや」と言はれければ、「その事に候。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候ふことなり」とて、さし寄りて、据ゑすえなほしてにければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

 

『現代文』

『丹波に出雲という所がある。出雲大社を勧請して、見事に社殿を造っている。しだの某とかいう者の領地なので、秋に聖海上人しょうかいしょうにんが多くの人と共に「さあ、出雲を拝みに行きましょう。ぼたもちをご馳走します。」と言って、連れ立って行ったら、各々が拝み、すっかり信心をおこした。神の使者とされる獅子と狛犬が、後ろ向きに立っていたので、上人が普通ではないと感じ「ああ見事だ。この獅子の立ち方、実に珍しい。深い謂れがあるのだろう」と涙ぐみ「どうですか皆さま方、こんな格別で、すばらしいことを見てお気づきにならないのか。非常によくない。」と言ったので、各々が不思議に思い「本当に他とは違っている。都へのみやげ話にしよう。」などと言っていると、上人はなお知りたがって、思慮深く物事をきっと知っていると思われるような顔をした神官じんがんを呼んで、この神社の獅子の立てられ方は、きっとしきたりがあるに違いない。少し聞かせてもらえますか」と言われたら、「それは、悪戯いたずらな子供の仕業で、まことにふとどきな事でございます。」と、獅子の傍に寄り、置き直して行ってしまったので、上人の感涙が無意味になってしまった。』

 

 

悪戯いたずら

 何とも、恥ずかしい思いをしたでしょうね、この聖海上人しょうかいしょうにんは。人が良いと云うのか、早とちりと云うのか、どんな顔をしていたのか、見て見たいものです。

 しかし、上人と云えば、いわゆる高僧のことですよね。全訳古語辞典でも、「知徳を兼ね備え、修行を積んだ、すぐれた僧。」と書かれています。

 ですから、この話が面白いのであって、普通の人であれば、よくある話です。

 長く生きていると、一度や二度は、顔から火が出るような恥ずかしい思いをした経験はあると思います。私にも当然そんな事があった記憶があります。

 でも、そんな記憶もいつの間にか忘れてしまったようです。と言うより、思い出したくもありません。

 ただ、悪戯いたずらをしてこっぴどく怒られた事は、覚えています。

 幾つぐらいだったか覚えていませんが、ポストを掃除しようと、隣の郵便局長の息子と、郵便ポストを洗い始めたのですが、雑巾バケツに水を汲んで、上から水をかけ、ほうきで泥を塗っているような洗い方、しかも、ポストの入り口から、その泥水を入れるという、念の入れよう。

 当然、中の郵便物は泥だけ、水浸しです。洗っている最中に、集配に来た郵便屋さんに、二人ともえらい勢いで怒られたのですが、二人とも悪い事をしている気持ちは無かったので、なぜ怒られているのか、その時は解りませんでした。多分まだ小学校に入る前だったように思います。

 ただ怒られただけで済みましたが、今考えると、度が過ぎた悪戯いたずらでした。