今日の一文字は『出家』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第四十九段』を読んで見て、感じた文字です。
原文
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出家
昨日から断続的に雨が降り、今朝も降り続いています。
未だに西日本豪雨の影響があり、各地で大変な思いをされていると思います。
西日本豪雨からは、既に2ヵ月を過ぎようとしています。ライフラインと交通機関の復旧は、なるべく早くしてもらいたいと、思いますが、関係者の人は大変な苦労をされていると思います。
これだけ、豪雨、台風、地震と立て続けに自然災害が起こると、なすすべもありません。
台風21号も、大阪市では最大風速47.4mとありましたが、地域によっては、非公式と思いますが80mを越える突風が吹いていたのでしょう。
人間は、弱い存在である事を、改めて認識さされます。
さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。
徒然草 第四十九段 〔原文〕
老來りて、始めて道を行ぜんと待つ事勿れ。古き墳つか 、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、甲斐あらんや。
人はたゞ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、此の世の濁りもうすく、佛道を勤むる心もまめやかならざらん。
「昔ありける聖は、人来たりて自他の要事をいふとき、答へて云はく、『今、火急の事ありて、既に朝夕ちょうせき にせまれり』とて、耳をふたぎて念佛して、終に往生を遂げけり」と、禪林の十因に侍はべ り。心戒といひける聖は、餘りにこの世のかりそめなることを思ひて、靜かについゐける事だになく、常はうづくまりてのみぞありける。
『現代文』
まず、我流で現代文にしてみましょう。
『老いてから、仏の道を始めようと待つ事の無いように。古い墓の多くは、若い人のものである。
思いがけずに病になり、たちまちこの世を去ろうとした時に、初めて過去の過ちに気付くものである。
誤りというのは他でもない、直ぐにしておかなければならない事をせず、後でも良い事を先にしてしまい、悔しい思いをする。その時に悔いても遅い。
人は無常である事をしっかり心にかけて、少しの間も忘れてはならない。そうすれば、濁った心も薄まり、仏道に勤める気持ちも行き届いたものになる。
「昔の聖人は、人が来て自分や他の人の大切な事を言う時、それに答えて、『今、急ぎの用があり、期限が迫っている』と、念仏を唱え、終に往生した」と禪林の十因(京都禅林寺の永観著『往生十因』)に書かれてある。
心戒という聖人は、あまりにこの世の儚さを思って、静かに膝をついて座る事もなく、いつもしゃがんでいたようだ。 』
『出家』
出家は、早くした方が良いと言う事を書かれています。
これは、どれだけ早く信仰心を持つかによると思います。その理由について、書かれてありますが、大前提から俄かに信じがたい事が書かれています。
「古き墳つか 、多くはこれ少年の人なり」の時代であったのでしょうか。自然の摂理から見ると、年老いてから死ぬことが自然だと思います。
確かに医療が発達していない時には、生まれてすぐに死ぬ赤子も数多くいたでしょう。また、死産も今よりも多かったと思われます。
かと言って、それを説得の道具として、まことしやかに言うのは、仏教の普及活動としては、まるで詐欺のような振る舞いに思えます。
もちろん、人間はいつ死ぬかは、定まっていませんから、死ぬ間際になって、後悔しても始まらない事は、言うまでもない事です。
〔気付き〕
次の説得材料も、余りにも稚拙すぎます。
「思いがけずに病になり、たちまちこの世を去ろうとした時に、初めて過去の過ちに気付くものである。」
気付きと言うのは、死ぬ直前と仮定するのは早計ではないでしょうか。人間と言うのは面白い物で、気にかけているとか、かけていないとか、そういう問題では無く、ふと、ある日突然に、「あっ、そうか」と気付いたりします。
「気付く」と言うのは、キッカケであり、それまでの知識や体験、経験に合う事があれば、「なるほど」と気付くものです。これは、あくまでも持論です。ですから、なるほどと、思う人だけ、なるほどと思って下さい。
よく、「学校の勉強なんて、社会に出たら何にも役に立たない」 と言う人がいますが、それこそ、現在の勉強の仕方に翻弄されています。
学んで、覚えているかを試験をして、結果が良ければ、賢い。そんなロジックに惑わされてはいけません。
学んで、習って、教えられる事は、全て何かのキッカケに出会うための貯金 であると、考えるようにすると、面白いと思います。
私などは、その貯金が無かったために、今一生懸命貯金する羽目に陥っているのかも知れません。それでも、そう考えると、勉強も面白い物です。
〔無常観〕
「無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。」
しかし、だからと言って、「出家」とは、飛躍しすぎと思いませんか。
しかも、次の理由が聖人二人の逸話ですから、そう簡単には腑に落ちません。
もっと上手い言い方があっても、良さそうだと思います。
無常観 と言うのは、一般の人が目にする事ができるのは、方丈記や平家物語に代表されますが、普通に生活していても、身近に感じる事があります。
私が一番最初に感じたのは、友達のお父さんが、亡くなった時です。小学校の低学年ですから、感情的に何か変化があったわけではありません。その友達の話では、縁側に座ったまま亡くなったそうです。それでも、その子の話を聞いていて、何か無常観を感じた事は事実です。
小学校の時には、色々な出来事がありました。丁度北朝鮮に帰国船が出て、その船に乗るために、ある日突然、一人の友人が居なくなりました。
ボーイスカウトの下位団体、カブスカウトの指導者でいつも面倒を見てくれていた人が、梯子から落ちて亡くなったと、訃報を聞いた時には、その前の日に話をしていましたので、びっくりした事を覚えています。
中学校の時には、前にもこのブログで書きましたが、大学の時に革マル派に鉄パイプで殴り殺された友人の母が亡くなった時の事は、詳細に覚えています。授業中に担任の先生が、彼を呼びに来て、只ならない面持ちで先生が教室に入って来たので、何事かと思ったのですが、後で、彼の母が亡くなった事を聞かされました。どういって声を掛ければ良いのか、言葉もありませんでした。
その他にも、ある日突然、その前後で、まったく環境が変わる事を、体験しました。
その度に、少しづつですが、世の中で確かなものはなく、一瞬で物事の未来が無くなる事を知りました。そして、それでも、社会は変わる事無く、時は無常に流れて行くことを知ったのです。
〔社会〕
何も、出家するだけが、そして宗教に身を投じる事だけが、人間としての価値とは思えません。
人間は、隔離して、悟りを求めるようには、出来ていない事が、真実のように思います。特別な人を除いては。
いつも、いつも同じ事を言いますが、人間は社会的な動物だと思っています。
社会が成り立ってこその、出家 であると思っています。確かに人生は楽しい事ばかりではありません。人間の醜さ、辛さを諦観するには、出家も一つの方法かも知れません。
しかし、私は、その大変さを味わいながら、個人の人生を謳歌するのが、人間だと思っています。
ですから、人は迷い、戸惑いながら、人生を歩みます。
寄り道も、真直ぐの道も、間違った道も、人間がどこに行こうと思っているのか、それを探求するのも人生ですし、目を背けるのも人生です。
しかし、 どの道も行き過ぎない事が、自分の人生を豊かにする一つの策だと思います。