今日の一文字は『見直』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第三十七段』を読んで見て、感じた文字です。
原文
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見直す
間柄
8月12日夜、大阪府警、富田林署から樋田淳也容疑者(30)が逃走してから16日が経ちますが、未だに逮捕に至っていません。
いつまで逃走を許すのでしょうか、ドラマで聞く、警察の威信にかけて、と言うのは、こういう時に使う言葉です。しかも、自らの失態ですから、汚名をそそがなければなりません。現在兵庫県まで逃げているようなニュースがありましたが、これもハッキリしていません。もちろん分かっていれば、直ぐにでも逮捕してほしいものです。
今日も暑い日になりそうです。さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。
徒然草 第三十七段 〔原文〕
朝夕へだてなく馴れたる人の、ともある時に、我に心をおき、ひきつくろへる樣に見ゆるこそ、今更かくやはなどいふ人もありぬべけれど、猶げにげにしく、よき人かなとぞ覺ゆる。
疎き人の、うちとけたる事などいひたる、また、よしと思ひつきぬべし。
『現代文』
まず、我流で現代文にしてみましょう。
『いつも懇意にしている人が、何かある時に、私を気遣って身なりを整えている様子は、今更と言う人もあるが、実に誠実な人と改めて思える。
日ごろは疎遠にしている人でも、気を許して近づいてくると、良い人だと思ってしまうにちがいない。 』
『見直す』
私は、この徒然草の文章から二つの意味を感じています。一つは、この表題にように、「見直す」と言う事と、次の表題の「欺瞞ぎまん 」が浮かんでしまいます。
インターネット上には、この徒然草を現代文にされているものが散見されますが、私のようにひねくれた解釈はされていないようです。
諺で言えば、「遠い親戚より近くの他人」であるとか、「遠水渇を救わず」など、疎遠にしている人より近くで仲良くしている人の方が、頼りになる、と言う方がしっくり来ます。
この「欺瞞ぎまん 」については、次の項に譲るとして、「見直す」と言う事について、少し考えて見ましょう。
相手を気遣って、服装を正す、と言うのは、私の礼儀に対する原点です。 前にも書いた記憶がありますが、高校生の時に、友人と服装について熱く議論をした覚えがあります。二人とも裾が30cm以上(ラッパズボン)もあるズボンを穿いていましたから、周りで聞く人がいれば、「お前ら何をいうてんねん」と言われてしまうでしょう。
その結果は、服装をその時の場に合わせる事は、相手に対しての礼儀である。と言う結論に至りました。
極端な例をあげると、葬式に参列するのに、色鮮やかな服装をわざわざ着る事は、異様な雰囲気をもたらし、ひいては、場の雰囲気を壊してしまう。それが自分だったとしたら、その場に逆らっている意思表示、あるいは、喧嘩を売っているようにしか思えません。
要するに、礼儀に反する事になります。
この徒然草の文章のように、礼儀ではあっても、自分を気遣うような仲ではなく、ざっくばらんな付き合いであったとしても、襟を正してくれる友人の姿を見ると、今更ながら、やっぱり持つべきものは友と、思えるような友人だと、再認識したのでしょう。「親しき中にも礼儀あり」が解る友人です。
ここでは、服装についての事が書かれていますが、この襟を正す、かしこまる、と言う立ち振る舞いも、人と人との交際を和ませる事だと思います。
言葉でも同じ事が言えると思います。よく自然が良いとか、普段通りと言う事を言われますが、よく考えるとこれは、今はやりで言われる「上から目線」だと思います。
改まった言葉を使えない人に対して、その人に対しての優しさとも取れますが、辛辣な言い方になりますが、ある種、馬鹿にした言葉だと思います。
やはり、改まった言葉遣いができる事は、教養があることであり、できれば、改まった言い方も知っておいた方が良いでしょう。
もし、そういう知識がない場合は、気持ちだけでも改まる と、言葉自体に表現されますので、気を付けたいものです。
『欺瞞ぎまん 』
私は、不動産業をしていた事があると、このブログでも書きましたが、当時の不動産業には、 人を騙して商売にしようとする人が沢山いました。
いわゆる魑魅魍魎ちみもうりょう の棲む世界だったように思います。私はその時、何故か、法律上問題であったり、親族間のいざこざを処理することを頼まれる事が多かったのですが、その時、その依頼された人たちに言っていた事は「知らない人には騙されない。知っている人に騙される」 と言っていました。
さいきんは、「オレオレ詐欺」が弱い人達を騙しているようですが、一見全く知らない人に騙されているようですが、これも知ってる人になりすましているから騙されるのであって、全く知らない人に騙されるとしたら、その騙した人が、余程の詐欺師か、法律の裏を知り尽くした者だと思います。
こういう世界にいたせいかも知れませんが、疎遠にしていた人が、上手い話を持って来た時には、何か魂胆があると警戒した方が良いでしょう。
この世の中が善人で満たされているのであれば、この徒然草の解釈も、私のようなひねくれた取り方をしなくても良いのですが、今の世の中は、実に自分さえよければ良い人が多い事か。
これも、戦後の教育の偏った個人主義の一端かも知れません。
そんな中で、先日2歳の子供を発見した、ボランティアの尾畠春夫さん(78才)なんかを見ると、この世の中も捨てたものでは無いと思います。
半面、テレビで毎日のように流れるニュースを見ると、嘆かわしい事が起こっています。
善人も悪人もいて、人間社会と思えば、気も休まりますが、悪人が傍にいると、心も休まる事はないのではないでしょうか。悪人と言っても犯罪者だけではありません。
人を欺いてやろうと企てる人の如何に多い事か。やはり、嘆かわしく思ってしまいます。
現状は分かりませんが、不動産業を営んでいる時には、人を上手く騙して、家や土地を買わせることが出来る人の事を、頭の良い人、やり手と、私も思っていた時期があります。頭の良い人に成れませんでしたが、そんな頭の良い人がいっぱいいました。
何とかして、物を売ろうとして、騙しすれすれの商売もあります。ついついその誘いに乗ってしまうのが、一般の人間なのでしょう。
もう少し、疎遠な人との付き合いが、再び始まる事を良いように感じるようになりたいと思います。
「覆水盆に返らず」 と言いますから、一端過ぎ去った日、過ぎ去った出来事は、元に戻る事はないのでしょうが、また、初めから始める事は出来ると思います。