『礼と節』を表現してみよう。 Part-8 2. 動作で『礼節』に適う事・・・・立ち振る舞い続篇

 これは、私が会社で管理職の時に、結構部下にもいました。電話を放り投げるように置く人です。放り投げないまでも、ガチャンと音がするような置き方。しかも、まだ相手が電話を切っていない時にです。

 部下でない人でも、結構こういう置き方をする人を見かけます。私が特殊なのか、それとも商売人の家に育った為でしょうか、ことさら相手に不愉快な思いをさせたくない、習慣が身に付いています。

 ある会社の東京支社で、支社長をしていた時に、一番最初に支社に居る人に注意をしたのは、電話の取り方、電話の置き方でした。

 電話の取り方は、 「電話篇」と重複しますが、ここでは、もう少し具体的に書いて見ます。
 第一声は、『株式会社〇〇です、私〇〇と言います。』と会社名と電話を取った人の名前をハッキリ言うようにしました。
 次の言葉は、お客様と自分の会社の人とで応答の仕方が変わります。お客様の場合は「いつもお世話になっております。」と挨拶を交わします。
 自分の会社の人からの電話の場合は「お疲れ様です」と挨拶を交わします。
 後は、その内容により多種多様です。
 初めの言葉だけは、統一しておきました。今で言うマニュアル見たいなものでしょう。
 ちなみに、「お疲れ様です」としたのは、「ご苦労様」と言うのは、何かこちらが頼んだ時に言う言葉で、上から下にかける言葉だと、他流派ですが、仲が良かった空手の先輩が言っていたのを、覚えていたからです。

 電話の置き方も、統一しておきました。相手の電話を取った場合でも、こちらから電話をした場合でも、原則として、相手が電話を切った事を確かめてから受話器を置くようにしました。それから、万が一もう一度相手が受話器を取った場合は、また、通話中になりますが、すでにこちらは受話器を耳から離していて、確認できません。まず、受話器を置く前に、親指で電話機のフックを静かに押さえます。これで一旦は通話状態ではなくなります。それから電話機を置きます。これで、相手がたとえ受話器をもう一度耳に当てても、ガチャンと言う音は聞こえません。

 この事は、扉の締め方も、同じです。
 もし、扉を無造作に音を立てて閉める習慣がついている人は、直ぐに改めるべきです。
 なぜなら、これは、自分が怒っている、あるいは興奮してる事を表す行為です。
 『礼節』を欠きます。『粗野』な人の態度で、決して人格の備わった人の取るべき態度ではありません。
 しかし、音に対して、無神経な人は、意外と多いのです。自分では気付かないで、習慣となってしまっている人がいます。それは、育った家庭が音に対して無神経な過程で育つと、悪い態度である事を、認識しないまま大人になってしまいます。

 態度が大方の常識の範囲でないと、思わぬ評価になってしまいます。
 私がまだ生まれる前の事ですが、私の父が、大阪砲兵工廠(当時アジア最大規模の軍事工場)に面接に行ったそうです。私の父は「ビルマの竪琴」の生き残りの一人でしたが、戦争に行く前の事です。父は尋常高等小学校卒業ですから、いわば低学歴でした。
 当時の面接官は、私が想像するに、立派な髭を蓄えた如何にも軍人と言う人だったのでしょう。長靴を履き、サーベルを床に立て杖代わりにしていたかも知れません。
 その部屋に入り、その面接官に、近くにくるよう言われた父は、机の前ではなく、面接官の横に近づいたそうです。途端に面接官は、「帰れ」と一言。それで面接は不合格だったらしいです。

 この話は、誇張でもなく、父が話してくれた通りの事です。16歳で九州から単身大阪に来て、18歳の時、宝塚で時計屋を始めた父は、そのころは、まったく世間知らずで、都会には馴染まない人だったのだと思います。

 父がこの話をしてくれたのは、常識を知らないと、自分では訳が分からない評価を受ける事を、教えたかったのだと思います。

 そんな父ですが、人徳があったのか、人には尊敬され、人の為に色々な事をし、亡くなった時には、法務大臣から弔意が寄せられました。大阪市、大阪府から頂いた表彰状の数は山ほどあります。私にはいつまでも、超える事が出来ない一人です。

 こんな話を聞いて大人になりました。母はそこそこのお嬢さんでしたが、父は雑草のような人で、勝新太郎の「兵隊やくざ」の主人公そのものです。妻もこの映画を観て、お父さんみたいと言っていました。ただ映画では良いのですが、粗野で礼儀作法の一つも知らない人でしたから、色々苦労したのだと思います。そのお陰で私は、勉強させてもらったのだと思います。

 ここで、一つ『礼節』にかかわる事があります。それは、相手に近づき過ぎない事です。これは、社員教育でも話をしましたし、このブログを読んでいる人も、習慣にされると、とても良い習慣になると思います。
 一つは、相手に口臭が臭わない距離感を持つ事です。これは、親しき中にも礼儀ありで、馴れ馴れしいのも限度があるという事です。距離で測れるものではないと思いますが、約1.5mの距離は置いた方が無難でしょう。
 一般的には、自分が上位の立場と思っている人は、親近感を増すため近づくと言いますが、私から見ると、自らが上位と判断しない方が良いと思っています。関係は自然とできるものです。

 今、口臭が臭わないと書きましたが、これも臭うと『礼節』を欠きます。自分が臭わないと思っても、口臭や体臭は、思いのほか人には迷惑になります。
 私が営業をしていたころは、お客様の家に伺う時は、必ず近くのトイレで、足を洗い、新しい靴下に履き替えました。人が不愉快にならないよう気を付ける事も、『礼節』の大きな目的です。
 口臭などは、自分の健康にも影響します。健康管理にも注意が必要です。

 その他にも、自分が意図しないで、相手に不愉快な思いをさせてしまう事もあると思います。
 相手から、注意を受けている時の態度や、連絡をされている時の態度、あるいは、説明を聞く態度、教えを受けている時など、習慣になっていて、気付かない内に相手からの評価が悪くなってしまう事が、結構あります。

 私が若い頃、故佐々木武先生(日本空手道致道会初代会長)から「良い刀は鞘に収まっているものだ」と言われたことも、視線(目つき)が『礼節』に欠けていたものだと思います。

 このブログが、自分を見直してみる、きっかけになって欲しいと思います。

 折角空手道の稽古である、「型」は、自分を観るための稽古です。私も、まだまだ、これから直していかなければならない事を、見つけ出してみようと思っています。
 その為には、その悪い事に、気付く事が先決です。