文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【195】

 今日の文字は『別格べっかく』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百九十四段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 別格

 

 最近は、レシピの掲載をしていて、ニュースを考える事をしていませんでした。この間も色々なニュースが毎日ネットでもテレビでも流されています。

 今日は、またニュースを取り上げました。

☆『何者かが編集?明石市長の暴言データ2種存在 穏やかな会話も』

(神戸新聞NEXT/神戸新聞社 2019/02/05 07:30)

「前明石市長の泉房穂氏(55)=2日付で辞職=が市職員に暴言を浴びせた問題で、発覚の発端となった音声データは少なくとも2種類あることが、神戸新聞社の取材で分かった。一つは、市長と市幹部のやりとりを全て録音した1時間6分33秒の長いバージョン。もう一つは、「火を付けて捕まってこい」という部分の前後だけを切り取った1分38秒の短いバージョン。長短2種類の音源の存在が、さまざまな臆測を呼ぶ原因となっている。(藤井伸哉)
——後略」

 確かに話と言うのは最後まで聞かないと、真意は伝わりません。この文章を読むと、この市長に対する擁護とも受け取れます。

 どちらに非があるかと言うと、職員でしょう。仕事をしない職員をしかりつけるのは当然だと思います。今で言えばパワーハラスメントになるのでしょうが、少しハラスメントの扱いも度が過ぎているように感じています。

 この場合は、あくまでも、税金で仕事をしている分けですから、単なるパワハラと捉えられない部分もあると思います。

 しかし、この市長の発言は、東大を出て、弁護士資格を持ち、国会議員を歴任している人としては、失言の度を越えています。やはり、世の中言っていい事、悪い事の区別が出来ない人が、政治に携わるべきではないと思います。

 ちょっとしたボタンの掛け違いで、戦争まで引き起こす事になるのですから。 
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百九十四段 〔原文〕

  達人の人を見るまなこは、少しも誤る處あるべからず。

 たとへば、ある人の、世に虚言を構へ出して、人をはかることあらんに、素直に眞と思ひて、いふ儘にはからるゝ人あり。あまりに深く信をおこして、なほ煩はしく虚言を心得添ふる人あり。また何としも思はで、心をつけぬ人あり。又いさゝか覚束なく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じ居たる人あり。又まことしくは覺えねども、人のいふことなれば、さもあらんとて止みぬる人もあり。又さまざまに推し心得たるよしして、賢げに打ちうなづき、ほゝゑみて居たれど、つやつや知らぬ人あり。また推し出して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ誤りもこそあれと怪しむ人あり。また、異なるやうも無かりけりと、手を打ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりともいはず、覚束なかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、すこしも欺かず、構へ出だしたる人とおなじ心になりて、力をあはする人あり。

 愚者の中のたわぶれだに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞にても顔にても、かくれなく知られぬべし。まして、あきらかならん人の、惑へるわれらを見んこと、たなごゝろの上のものを見んがごとし。たゞし、かやうのおしはかりにて、佛法までをなずらへ言ふべきにはあらず。

『現代文』

『達人と言われる人は、人を少しも間違いはなく見るだろう。

 たとえば、ある人が世の中に嘘の話を流して、人を騙すような事がある場合、素直にその話が本当であると信じ、騙される人がいる。あまりに深く信じるあまり、さらに自分でも嘘を重ねてしまう人がいる。また、何とも思わず心に止めない人もいる。あるいは、少し疑惑を抱きながら、信じるわけでもなく、信じないわけでもなく、思い煩う人がいる。また、信じ難いけれども、人が言うから、そんな事もあると思って、それ以上詮索しない人がいる。また、色々推考し得心した様子で、賢そうに頷き微笑んではいるが、何も解っていない人がいる。と思えば、推考し「ああ、こういう事か」と誤りに気付く人もいるが、自分も間違っているかも知れないと思う人もいる。あるいは、間違いないと、手を打って笑い賛同する人もいる。しかし、嘘である事を知りながら、知っている事も言わずに、知らない人と同じようにしている人がいる。だが、この嘘の本意を当初から知っていて、少しも軽蔑せず、嘘を言った人と同じ気持ちになり、協力する人がいる。

 愚かな人たちの冗談であっても、見識のある人の前では、このさまざまな捉え方が、言葉からも表情からも、読み取って知るに違いない。まして、道理に明るい人が、惑う我らの事は、手の平の上にある物を見るようなものである。ただし、このような推量も、仏法までを同列に扱うべきではない。』

 

 

『別格』

 兼好法師としては、僧侶ですから、仏法を同列に扱われたくない気持ちは、解ります。仏法は、世俗の事とは別格にしなければならない、僧侶としての自負もあり、義務でもあると思います。

 しかし、一つの嘘の捉え方を、よくこうも観察したと思えます。

 近頃よく思うのですが、今の人は、嘘が上手になったのですかね。嘘が顔に現れないというのか、いけしゃあしゃあというのか、平気で嘘をつくように思います。私の見る目がないのかも知れませんが、テレビで観る、犯罪者が、捕まる前に記者の前で、まったく自分とは関わりのない事、あるいはそんな事が起こるとも思わなかったようなそぶりを見せています。

 次の日のニュースで、その人が捕まっているのを見て、驚く事が実に多くなったような気がします。

 昔は国会に招致されようものなら、それなりに人生の荒波をくぐって来た人でさえ、手が震えたり、署名できなかったりと言う場面を見てきましたが、最近は、国会の中ででも平気で嘘を並べ立てます。

 国会招致された一般の人でなくても、国会議員ですらよく平気でそんな嘘をつけるな、と思う事がしばしばです。いや、国会議員ですら、というのは間違いかも知れません。

 鎌倉時代が末法の時代と言われて久しいのであれば、平成の末期は、日本が文化を失う、あるいは日本的な物の考え方の消滅時代と言えるかも知れません。

 まず子供の教育の中で、今まで共通していた言葉は、「嘘をついてはいけません。」「嘘つきは泥棒の始まり」と教えられたのではないでしょうか。そして、「人に迷惑をかけない」そんな事を聞いて育ったような記憶があります。

 誰を信じてよいか見当もつかなくなる世の中は、決して人が住みよい社会ではないと思います。

 多様化と言う言葉によって、人それぞれの考え方に尊厳を持ったことは、それほど悪い事では無いと思います。しかし、それはあくまでも、見識がある人の言葉によるべきだと思っています。

 誰でも自分の意見を正しいと思いだしたら、世の中は混乱するに違いないと思います。いや、すでにそんな時代が到来しているのでしょう。

 この段のように別格の人が、価値観を誘導してくれればありがたいのですが。