文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【74】

 今日の文字は『うそ』です。うそ八百という時に使う文字で、草書で書きました。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第七十三段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
 

 読売新聞()に『「財布ちょうだい」車の進路塞ぎ686万円奪う』という見出しがありました。

 2日午後6時55分頃と言いますから、ちょっと薄暗くなっているとはいえ、深夜でもありません。白昼堂々と言う言葉は当てはまらないかも知れませんが、同じようなものだと思います。

 日本の犯罪も、変な所で国際化しているように思います。

 国際化と言えば、『米財務省、山口組幹部4人と関連2社に制裁』と【AFP=時事】の見出しを見ました。一般市民の知らない間に、国内でも闇の世界が広がっているのかも知れません。

 なんだか、台風25号も怪しい動きをし始めています。6日ぐらいから日本の本土に近づきそうな気配です。近畿地方では、前回と違って上を通るようですから、前よりも暴風が吹くかも知れません。十分な注意が必要です。

 昨日は、延期になっていた運動会が近くの小学校で開催されました。一生懸命練習していた甲斐があったのか、晴天で良かったです。

 今日は、幼稚園の運動会の練習をやっているようです。賑やかです。何時運動会が開かれるのでしょうか。今週末から来週の初めに台風がこなければ良いのですが。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第七十三段 〔原文〕

 世にかたり傳ふる事、誠は愛なきにや、多くは皆虚言そらごとなり。

 あるにも過ぎて、人はものをいひなすに、まして年月すぎ、境も隔たりぬれば、言いたきままに語りなして、筆にも書き留めぬれば、やがて定りぬ。道々のものの上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに神の如くにいへども、道知れる人は更に信も起さず。音にきくと見る時とは、何事も變るものなり。

 かつあらはるゝもかえりみず、口に任せていひちらすは、やがて浮きたることと聞ゆ。又、我も誠しからずは思ひながら、人のいひしままに、鼻の程をごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、能く知らぬよしして、さりながら、つまづま合せて語る虚言は、恐ろしき事なり。わがため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず、皆人の興ずる虚言は、一人「さもなかりしものを」と言はんもせんなくて、聞き居たる程に、證人にさへなされて、いとゞ定りぬべし。

 とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍しからぬ事のままに心えたらん、よろづ違ふべからず。下ざまの人のものがたりは、耳驚くことのみあり。よき人はあやしき事を語らず。

 かくは言へど、佛神の奇特きどく權者ごんじゃの傳記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは世俗の虚言を懇に信じたるも をこがましく、「よもあらじ」などいふも詮なければ、大方は誠しくあひしらひて、偏に信ぜず、また疑ひ嘲るべからず。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『世の中で語り伝えられている事は、事実では愛想がないので、多くは皆つくりごとである。

 事実を越えて話を言いふらすので、年月が過ぎ遠く離れた所では、言いたいままに話をつくって話し、文章にしたりすると、やがて事実として定着してしまう。

 その道の専門家の小難しい話など、その道を知らない人は、根拠なく神の言葉のように言うが、知っている人から言わせれば、信ずるに値しない。噂と実際に見るのとでは違いがある。

 喋っているそばから嘘がバレるているのに、構わずに出まかせを言っていると直ぐにいい加減な人だと思われる。

 また、自分でも疑いながらも得意げに、人の言うままを言うのは、その人の嘘ではない。もっともらしく所々まごつきながらも、よく知らない様子でありながら辻褄を合わせて話す嘘は恐ろしい。

 自分の為に、面目が立つように話される嘘は、それほど否定はしない。

 皆が楽しんでいる嘘は、一人だけ「そうでもない」と言っても誰も喜ばないと黙っていると、その話を肯定した証人にされてしまい、ますます嘘が誠になってしまう。

 とにかく嘘の多い世の中である。ただ、嘘は常にあり珍しくもないと心得て置けば間違いがない。

  大衆の話しは驚くような話ばかりである。立派な人は根拠の無い話はしないものである。

 とは言っても、仏神の霊験や、化身の伝記をむやみに信じてはいけないというのではない。

 これは、世俗の嘘を熱心に信じる事もみっともないし、「まさかそんな事はない」と言うのも無益なので、大方は真実であるとしておき、全てを信じるのではなく、また疑って冷やかしてもいけない。 』

 

 

『嘘』

 「嘘も方便」と言う言葉は、聞き覚えがありますが、元々「方便」は仏教用語、そして「嘘も方便」も江戸時代から言われています。人の為なら「嘘」も使いようと言った意味で、使われてきたと思います。

 ですから、「嘘」と言っても色々な場合があります。兼好法師が言う「嘘」とその対処の仕方を、現在に当てはめて書いて見ます。

〔噂〕 

 確かに、噂話は、誇張されたり、面白おかしく脚色される場合もあると思います。しかし、「火のない所に煙は立たぬ」とも言います。

 噂話を鵜呑みにする事は、危険ですし、それが人を中傷するような話であれば、尚更で、信じないで、自分で確かめるべきでしょう。

 昔と違って、情報化の時代ですから、自分でもその根拠を、ある程度は探れると思います。

〔文章化〕

 これが、やっかいな問題です。私などは、今まで活字を避けて人生を歩んで来ました。ですから、余計に活字に対する信頼度は、もはや妄信と言っても良いほどの信頼を置いています。

 ですから、文章化されてしまうと、その根拠を調べるのも書籍によって検証します。今であれば、インターネットがその役割を手軽にしてくれています。

 もうこれは、お願いするしかないのですが、文章化する場合は、責任を持って書いてもらいたいと思います。

〔専門〕

 特に、専門家と言う人の言葉は、文章化と同様、鵜呑みにしがちですが、その前に、専門家自身が、専門用語と称して、専門外の人を煙に巻くような発言は、慎んでもらいたいと思います。

 先日、歴史の専門家である、ある大学の教授が、聖徳太子そのものが架空であると、断言しているのを聞きました。

 しかし、その人の弁では、厩戸皇子うまやどのおうじが亡くなってから、その存在を称える意味で聖徳太子と命名したと、言ったと思うのですが、違っていたらごめんなさい。

 だとすれば、聖徳太子は厩戸皇子うまやどのおうじそのものですし、決して架空の人とは、言えません。

 徳川家康は、実在の人物ですが、東照大権現とうしょうだいごんげんは、架空の人とは言えません。徳川家康が亡くなってから神格化されて付けられた名前です。

 私なども、一応空手道の専門家として、このブログを書いています。

 出来るだけ、専門用語を書く時には、専門外の人が読んでも分かるようには、していますが、それでも、伝わらない部分はあります。
 
 しかし、自分の書いた内容については、検証の上、嘘を書かないように努力しているつもりです。

 それでも、間違いがある場合は、このブログを通じて訂正して行こうと思っています。

〔いい加減な話〕

 世の中には、さも事実の様に喋る、話上手な人がいます。しかし、この話を信じる人がいますから、詐欺が横行するのだと思います。

 これは、自分が 理論武装して、防衛体制をとらないと、まんまと術中に嵌ってしまいます。

 上手い話には乗らない方が得策です。世の中そんなに都合よく出来ていません。儲け話には裏があると言われています。

 詐欺師はプロですから、話し上手であるのは当たり前、って、こんなプロはいない方が良いのですが、世間には何とかしてぼろ儲けしようとする、犯罪者がうごめいていると考えるべきでしょう。誠に残念な話です。

〔人の嘘の伝達〕

 疑っているなら、人に話さなくても良さそうなものですが、知ってることは、何でも人に言わないと気が済まない人もいます。

 でも、気持ちは良く分かります。私も最近はインターネットや情報を探って真偽を確かめてから発信しますが、昔は、良いと思った事は、人に言いたくてうずうずしていたと思います。

 ですから、知ったかぶりと言われる面も大いにあると、反省しています。最近は、人から聞いた話や、インターネットで書いてあることは、必ず裏付けを取るようにしていますが、人に言わなければ良いのですね。

 もちろん、嘘と知っていて話す事はありませんし、辻褄合わせもしませんが。

〔ごますりの嘘〕

 言葉を変えて言うと、「よいしょ」に当たるのですかね。少々の嘘があっても相手をその気にさせる嘘も存在します。

 聞いていると、「おいおい」とツッコミたくなりますが、これが上手な人もいますね。

 意外とそんな人が出世する会社も見てきました。しかし、この生き方はしんどいでしょうね。

〔反論できない状況〕

 確かにあります。自分だけが、違うと言う事を知っている場合は、その話を横から違うとはなかなか言う事ができません。

 違うと言わなければ、そのままそれが真実になってしまうような事は、勇気を出して、言わないといけないのですが、やはり立場を考えてしまうでしょう。

 私の場合は、この立場も弁えないで、発言した事が度々ありました。ですから、敵も多かったと思います。

 是々非々の人であると言われた事がありますが、結構覚悟がいります。

〔嘘は当たり前〕

 その人が知っているか知らないで言っているかは別にして、世の中は嘘で固めたような事が、平気で闊歩していると思った方が、被害が少なくてすみます。

 そんな嘘をつかない人と付き合わないと、ある時を境に縁を切らなくてはならない事がでてきます。

 非常に寂しい思いをしますが、私にもそんな経験がありました。残念でなりません。

〔愚者と賢者〕

 兼好法師の時代は、身分によって愚者と賢者を分けられたのかも知れません。その時代の知識の元は、すべて身分の高い人に集まり、一般大衆には知識を得る事も難しかったと思います。

 これもまた、私の憶測に過ぎませんが、身分制度では、どのような身分制度であっても、下の者が賢くなることを良しとしません。理由は簡単です。智慧が付くと、下克上の元だと考えたのでしょう。

 現代では、そんなことはないと思っていましたが、ある会社で社員の教育に力を入れていた頃に、上司からそんなに社員を賢くしてどうしようというのか。と文句を言われた事がありました。

 しかも、その理由が、自分たち役職についている者の地位が危なくなると言うのです。なんとも、狭量で肝っ玉の小さい人だと軽蔑してしまいました。

〔霊験・伝説〕

 私は、霊験や伝説の類は、話しとしては知っていても面白いし、設定を変えると教訓にもなると思っています。しかし、そのものズバリを信じるほどの信仰心は欠如していると思います。