「五輪書」から学ぶ Part-79
【風之巻】他流に太刀かず多き事

 【五輪書から】何を学ぶか?  

 左下の『枯木鳴鵙図』を描けるような、宮本武蔵の事を「一芸に秀でる者は多芸に通ず」と言うのでしょう。

 私は、「一芸に秀でる者は多芸に通ず」と言われたことも、少しはありますが、大半は、「器用貧乏」の範疇を出ません。  
 
 ある会社の総務部長をしている時、法務局に不動産の登記簿謄本を取りに行く必要が出来きました。部下に取り方を説明していると、経理の者が、声を潜めて、何でも知ったかぶりをしていると言っているのが聞こえました。
 気持ちは分からないではないですが、私は十回も職を転々としていました。その中で不動産会社の営業部長もしていましたし、自分の会社で経営もしていましたので、私にとっては、不動産の登記簿謄本を取る事は、毎日の日課のようなものでした。
 また、小さな印刷会社も経営していました。経営と言っても、自分で日本タイプライターを打ち、フィニッシュワークと言う版下作りをする零細です。
 ある時は、工場で工場長もしていましたので、当然機械を動かす事もできました。
 今でも、家にある置時計の修理は、自分でやります。時計屋の息子として8年程従事していましたので。時計屋と言うのは、その他、なんでも器用に出来るものです。

 なぜ、こんな話をするかと言いますと、すべて一流ではないので、「器用貧乏」の範疇を超える事ができません。

 武蔵の言う「太刀かず多き事」に匹敵するのかも知れません。

【風之巻】の構成

1. 兵法、他流の道を知る事
2. 他流に大なる太刀を持つ事
3. 他流におゐてつよみの太刀と云事
4. 他流に短き太刀を用ゆる事
5. 他流に太刀かず多き事
6. 他流に太刀の搆を用ゆる事   
7. 他流に目付と云ふ事
8. 他流に足つかひ有る事
9. 他の兵法に早きを用ゆる事
10. 他流に奥表と云ふ事
11. 後書
 
『原文』
5. 他流に太刀かず多き事 (原文は、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlを引用した)
太刀かず数多にして、人に傳る事、道をうり物にしたてゝ、太刀数多くしりたると、初心のものに深くおもはせんためなるべし。是、兵法に嫌ふこゝろ也。(1)其故ハ、人をきる事色々有と思ふ所、まよふ心也。世の中におゐて、人をきる事、替る道なし。しるものも、しらざるものも、女童子迄も、打、たゝき、切と云道ハ、多くなき所也。若、かはりてハ、つくぞ、なぐぞ、と云より外ハなし。先きる所の道なれバ、かずの多かるべき子細にあらず。されども、場により、ことに随ひ、上脇などのつまりたる所などにてハ、太刀のつかへざるやうに持道なれバ、五方とて、五つの数ハ有べきもの也。夫より外に、とりつけて、手をねぢ、身をひねりて、飛、ひらき、人をきる事、實の道にあらず。
人をきるに、ねぢてきられず、ひねりてきられず、飛てきられず、ひらいてきられず、かつて役に立ざる事也。我兵法におゐてハ、身なりも心も直にして、
敵をひずませ、ゆがませて、敵の心のねぢひねる所を勝事、肝心也。
(能々吟味有べし*)(2) 
【リンク】(1)(2)は【註解】として、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」にリンクされています。

 『現代文として要約』

 5. 他流に太刀かず多き事

 数多くの斬り方を売り物にして、人に伝えようとする事があるが、それは、その流儀を習うと、多くの技を習う事が出来ると、初心の者に印象付けようとするためである。これは、兵法として良い事では無い。
 その理由は、人を斬る方法が色々あると思うと、迷いが生じる。世の中で、人を斬る方法が色々ある分けではない。兵法を知っている者、知らない者、あるいは婦女子に至るまで、打つ、叩く、切る事ができる。しかし、方法は多くない。
 もし、あるとすれば、突く、薙ぐ(横に打ち払う)と言う方法以外にはない。兵法は、斬るための道なので、その方法は多くある筈はない。
 とは言えども、その状況に寄り、狭い場所などでは、長い刀が使えない場合は、使えるように持てば良いのだから、五方と言って、五つの方法はあっても良い。それ以外に追加して、手を捻じったり、身体を捻ったり、飛んだり、開いたりして人を斬るのは、本当の道ではない。
 人を斬る時、捻じったり、ひねったり、飛んだり、開いたりしても斬れない。役に立たない事は分かっている。

 我兵法においては、身体も心も真直ぐにして、敵を潰し、歪ませて、敵の心がねじれひねる所を攻めて勝つのが肝心である。

【広告にカムジャムという物を載せましたが、巻き藁を木にくくり付けるのに使っています。これはとても便利です】

 『私見』

 簡単に言うと、 五方の搆の事以外に、太刀筋は無いと言っています。それ以外があるとすれば、狭い所での刀の使い方、突く、払うと言った方法しかないと言います。

 刀の使い方を云々する前に、相手を圧倒して勝つ事が先決であるとも言います。小細工は反って、兵法の為には良くないと、捉える事ができます。

 この方法を突き詰めていくと、示現流に尽きるのかと思いますが、武蔵がこれを評価するとすれば、拘らない、という事でしょう。

 現在の競技としての空手では、ポイントで勝ちを決める方法が採用されています。この場合は小手先の技でも、有効な手段になっています。これも外国勢の体格から、ルールが変わってきたのかも知れません。

 日本でも、刻み突きと呼ばれる、前の手で突く、ボクシングのジャブにあたる方法が、試合で使われ始めるようになった時代では、賛否の議論がありました。日本人も体格が良くなり、180cm、100kg程の人の体重を懸けた突きは、見た目には小手先の技であっても、十分威力があるのが実情です。

 武蔵の危惧する「太刀かず多き事」も、時代が変わり、道具が変わり、使う人たちの体格が変わっていくに従って、変わって来るように思います。
 このような変化も、柔軟に受け入れる必要があると思います。でなければ、他流を批判している間に、時代に取り残されていく事になると思います。

 進化しているかどうかは、分かりませんが、変化し続けている事には敏感でなければ、兵法と呼べないとも思います。

 しかし、私の武道感は違います。人間同士の戦いは、もういい加減に止めるべきだと、思っています。

 日本では、すでに、今からおよそ400年も前に柳生宗矩によって、刀を、人を斬る道具から、人を活かす道具へと思想的な変換がされました。
 あくまでも、剣を人を殺す道具として見るか、それとも、武道として昇華するかが岐路であると思います。
 日本刀には不思議な魅力があります。刀と向き合った時、原点を重視し、斬る道具として見るのが良いのか、それとも、人格を向上させるための、修行の道具として捉えるかによって、人間の進むべき道が変わります。

 私は、徒手空拳でも真剣になる事ができると、感じていますので、空手道の修行によって、人格形成ができるものと思っています。ですから、刀であろうと、釵であろうと、たとえ棒であったとしても武器と呼ばれるものは、廃棄すべきだと思っています。
 もちろん武器の中には、美術的に高く評価できる物がある事も認めています。それは、その武器を造る職人が、丹精を込めて仕上げたからだと思います。実際に刀を手に取ると、芸術作品として魅せられると思います。
 それでも、それを、人を斬る道具として使う事には、反対します。

 今も、人間は戦うための道具を変化させ続けています。どこに向かおうとしているのか、私には理解しがたい事です。

 では、剣術も空手も格闘技もスポーツも、戦い、勝敗を決するゲームに魅力を感じる人が多い事も事実です。何も他人ごとではなく、私も例外なく、相撲やサッカー、野球などの勝敗に一喜一憂している一人です。

 人間にはその根底に、生きるための自己防衛が備わっている事が原因かも知れませんが、人間は自然淘汰されずに生き残ってきました。そんな矛盾を抱えながら、人間は生きていかなければならない、宿命を負っているのでしょう。
 それでも、人間同士のいがみ合いや、争いごとを無くすことができるのも、人間の智慧ではないでしょうか。

 早くも、武蔵の言う「太刀かず多き事」から、随分離れてしまいました。
 閑話休題、本筋に戻りましょう。「太刀かず多き事」は、今武道を志している人達への警鐘として、十分心に止めなくてはならない内容であると認識しています。

 空手だけの事で言うと、空手の練習体系は、概ね、基本・型・組手で成り立っています。特に型で言いますと、世の中では50とも100とも言われる程の種類が存在します。もちろん、流儀によっては、一つの型から分かれて、違うものとして継承されたものも含みます。

 私から言いますと「型の数多き事」と思います。文化的な遺産としては、意味ある事かも知れませんが、稽古する対象としては、10の型でも多いと思います。
 一つの型を稽古するのに飽きるから、多くすると言うのも問題です。できれば、早いうちに2から3の型を選んで、いやと言うほど稽古してみてはどうでしょうか。
 武蔵の言うように「しるものも、しらざるものも、女童子迄も、打、たゝき、切と云道ハ、多くなき所也。」である事は、徒手空拳の場合も何ら変わる所ではありません。言葉を変えると「空手をやってない人でも、突く、打つ、蹴るのにそんなに種類があるものではない」と言えます。空手の場合は、その突く・打つ・蹴るの部位を幾つも変化させている事はあります。武蔵の言うほど少なくはありません。それでも、極力少なくするべきだと思っています。
 なぜなら、咄嗟の時に身に付いた技として具現化するには、できるだけ数が少ない方が迷いがないからです。

 私が形意拳の崩拳を習っている時に聞いた事ですが、中国で生まれた形意拳の達人、郭 雲深は「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」と人々から言われたそうです。たった一つの技によって、世界を制すると言う事です。この意味を深く心に刻んで稽古する必要があるのではないでしょうか。

 【参考文献】 
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

   【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html