【五輪書から】何を学ぶか? |
「五輪書」も終盤に近付いていますが、未だに、武蔵の引用する言葉に慣れません。今回も「奥表」と言う言葉が出てきます。「初伝」「中伝」「奥伝」「皆伝」など、空手などで使う、段位のようなものは聞きます。また、「表裏」と言う言葉も一般的に使います。それでも、奥の逆は、通常は手前や入口の言葉が浮かびますが、対義語・反対語としては表と言うらしいです。家を例に挙げると、表・玄関(入口)・〇〇・奥(奥座敷)等と言いますから、私が知らないだけかも知れません。
「風之巻」では、他流を批評しているのですから、「奥表」も批評されるような事を、その当時の他流では見られるのでしょう。
武蔵の引用する言葉に対しては、『現代文として要約』や『私見』で明らかにして行きたいと思います。
しかし、現代でも、言葉の意味が、本来の意味とは、違うように変わってきています。「火之巻」後書にも書きましたが、枕草子(二六二段)にも言葉の使い方を非難していますから、今に始まった事ではありません。
最近は、言葉の変動に、なかなかついて行けてないのが現状です。それでも日本語の意味する所が、変わってしまって良いのでしょうか。寛容も適度でないと、相手の言う事を理解するのに、辞書が必要になってきます。
例えば、目線と言う言葉も、一般に認知されてから30年程だと思います。
ただ、私も、視線と目線は使い分けています。視線は実際に見る方向に使います。目線は、今はやりの「上から目線」のように、振る舞いや、ものの見方など、心の表し方に使っています。
今回改定される広辞苑にも、新しい言葉が約一万語もあると言う事です。
そろそろ、スマートフォンに替えて、意味を調べながら、話をしないとならなくなりそうです。
【風之巻】の構成
1. 兵法、他流の道を知る事 2. 他流に大なる太刀を持つ事 3. 他流におゐてつよみの太刀と云事 4. 他流に短き太刀を用ゆる事 5. 他流に太刀かず多き事 6. 他流に太刀の搆を用ゆる事 |
7. 他流に目付と云ふ事 8. 他流に足つかひ有る事 9. 他の兵法に早きを用ゆる事 10. 他流に奥表と云ふ事 11. 後書 |
10. 他流に奥表と云ふ事
兵法において、何を表、何を奥と言うのか。芸事では、何かにつけて、極意、秘伝などと言って、入口や奥があるように言っているが、敵と打ち合う時に、表で戦い、奥で斬るという事は無い。
我兵法の教え方は、初心者には、その技が出来やすい方法で練習させて習わせ、その者が納得できる理論を先に教えて、理解出来ない事は、その者が理解出来る頃を見計らって、徐々に深い理論を教えるようにする。
しかし、大抵は実際に則した事を覚えさせるので、入り口や奥と言う事は無い。
だから、世間では、山の奥を訪ねるのに、なお、奥へ行こうと思えば、結局入り口に出てしまうものである。
どの道でも、奥が大事な事もあるし、基本が大事な時もある。戦いにおいては、何を隠し、何を顕そうというのか。したがって、我道を伝えるのに、誓紙罸文などを書かせる事は好まない。この道を学ぶ人の智力を尋ね、本当の道を教え、兵法の五道(地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)六道(地獄,餓鬼,畜生,阿修羅,人間,天)の教えである悪い振る舞いを捨てさせ、自ら武士の執るべき実際の道に入り、うたがいない心にする事が、我兵法の教える道である。よく鍛錬する事。
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『私見』
この場合は、「表」を基本、「奥」を奥義と読み替えた方が、分かりやすいかも知れません。
永年空手の道を、横道にそれながらも歩いていますが、いまだ奥義を探せていません。やはり、仙人にならないと出会う事はないのかも分かりません。
ただ、武蔵も「奥の出合ところも有、口を出してよき事も有」と「奥」がある事を肯定しています。しかし、この「奥」と奥義には、違いがあると思います。ここで言う、「奥」は、特殊な秘伝と呼べるような技術ではなく、基本よりは、熟練を要する、初心者には難しい技、と言った意味合いでしょう。
勝手な理屈を捏ねるとすれば、基本は、ある程度練習すれば身に付く技、奥義は、極意とも呼ばれるように、コツが必要な熟練の技、秘伝となると、他には教えたくない、自ら会得した技、と思えます。
釣りの世界では、「鮒釣りに始まり、鮒釣りに終わる」と言われていますし、「基本は極意」という事もあります。
私の考えでは、たとえ、初心者の時に教えてもらった技でも、自分のものとし、そのコツを会得し、どんな場面でも、咄嗟にでれば、それが極意であり、その人の秘伝ではないかと思っています。いわゆる、得意技がそれに当たるのでしょう。
他流に太刀かず多き事でも紹介しましたが、郭 雲深は「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」と「崩拳」一つの技で、他を圧倒した逸話が残っています。
特に、机上で色々考え、理論上優れた技であっても、使えなければ意味がありません。
話は、少し違いますが、「誓紙罸文」についての見解を述べます。現在では、何かと言うと法律で解決しようとする傾向があり、帰属意識も希薄になりつつあります。また、師匠と弟子のような主従の関係でも無くなっています。まだ、そう言う風土がある世界もありますが、これも次第に無くなり、ギブアンドテイクの関係に変わってきています。
入門、入会時に、その会への誓詞や罰則が必要な時代になって来たのだと、思います。過去には考えられなかった関係が、親子、先生と生徒などの間でも時代と共に変化して行くのでしょう。
ある番組で、あるコメンテーターがグローバルな解決方法と言っていましたが、日本には昔から、今のスポーツの世界では一般的になっている、ノーサイドと言う解決方法がありました。要するに、和解したら、それまでの事を無かったことにする、と言う風習です。これは、人間の智慧ではないでしょうか。何でもかんでも、司法に任せて、決着を付ける方法が果たして正しいのでしょうか。場合によっては、お互いに握手して和解したいものです。そのコメンテーターは、グローバルな解決方法に疑問を持っていたようです。
【参考文献】
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html
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