神代の昔からと言う言葉があります。思想や宗教、哲学も含めて、人間は自分自身の思考の中で、物事を知りたがり、完結したいのだと思います。
哲学的思考で有名なのは、「アキレスと亀」の話です。有名なので知っている人は多いと思いますが、念のため少し説明を加えます。
アキレスとは、アキレス腱でお馴染みの、ギリシャ神話に登場する英雄です。彼が足が速かったか、カメより遅かったか、私には分かりません。ですから、昨年(2017年9月)に100m、9.98秒の日本新記録を樹立した、桐生祥秀選手と四天王寺のカメとの競争を想像する事にします。
当然、ハンデがなければ、出発した時点で桐生選手の勝ちです。しかし、50m先にカメがいて、同時にスタートしたとしたらどうでしょう。普通に考えれば、全く問題なく桐生選手が勝つでしょう。
ところが、これを、次のように考えた時、「 ?」と思うのではないでしょうか。下の絵の帽子をかぶった人が桐生選手です。カメは四天王寺のカメとしましょう。
どう言う事かと言いますと、A地点に桐生選手が付いた時には、カメはB地点にいます。そして、B地点に到着した時には、すでにカメはC地点にいます。この状態は永遠に繰り返されて、桐生選手は、いつまで経ってもカメには追い付けないと言う理論です。古代ギリシアの哲学者ゼノンによって唱えられたものですが、これは、ある思い込みを論破する為に作ったパラドックスです。
パラドックスと言うのは、「一見正しいように見えて正しいとは認められない説」の事や矛盾、あるいは逆説の事を言います。
全く『論語』と接点のないような話をしましたが、「天」や「神」「仏」、あるいは「鬼神」に祈る事への孔子の考え方は、ある意味、「アキレスと亀」のように、一見正しく見える事が、実は違うと言いたいのだと思っています。
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さて、以上のような知識を得たうえで、『論語』を読んで見たいと思います。
●白文
『子疾病、子路請祷、子曰、有諸、子路対曰、有之、誄曰、祷爾于上下神祇、子曰、丘之祷久矣』。
●読み下し文>
『子の疾、病なり。子路、祷らんとを請う。子曰く、これ有りや。子路対えて曰く、これ有り、誄に曰く、爾を上下の神祇に祷ると。子曰く、丘の祷ること久し』。【述而篇7-34】(但し、祷は〔示壽〕を省略しました。)
現代文にしてみます。
「孔子の病気が重い。子路が病気回復のお祈りをしたいと言った。孔子は。先例があるのか。子路がそれに答えて。有ります。誄に、汝を天地の神に祈る、という言葉があります。孔子は、私は祈って久しい。」
この文章には、誄と言う言葉が出てきます。「誄」とは、「故人の生前の功業をたたえる言葉」(出典:大辞林第三版 三省堂.)とあります。『現代人の論語』にも、「亡き人を偲ぶ誄の辞に」とあります。
どうも、この「誄」に引っかかっているのですが、『現代人の論語』以外でもこの部分には、触れていません。なぜでしょうか。
私は、生きている人の前で、「亡き人を偲ぶ誄の辞に」や「故人の生前の功業をたたえる言葉」として「誄」と言う言葉が使われたとしたら、そういう時代なのかとも思ってしまいます。
もしも、「誄」と言う言葉の意味が、故人に対しての言葉であれば、たとえ、「誄」と言う書物か書き付けがあったとしても、「誄」と言う言葉は、禁句でしょう。
例えば、受験生の前で、「すべる」とか「落ちる」と言う言葉に気を付けるとか、結婚式では「別れる」とか「切れる」と言う言葉を使わないのと同様です。
であれば、「誄」と言う言葉には、故人や亡くなる事を連想するような意味はなく、ただ祈祷するような、意味しかなかったと、勝手な解釈をします。
さて、『丘之祷久矣』ですが、「丘」は、孔子の名前です。私は既にずっと前から祈っている。と言っていますが、これは、病気の為に祈っているのではないと、思います。
ようするに、宮本武蔵の独行道にある「佛神八貴し佛神越太のま須」『仏神は貴し仏神を頼まず』と同じような、神に対する気持ちであったと思います。
雍也篇6-20『樊遅問知。子曰。務民之義。敬鬼神而遠之。可謂知矣。問仁。曰。仁者先難而後獲。可謂仁矣』の中に『敬鬼神而遠之』とあります。意味は、まさしく「独行道」に類似しています。「鬼神を敬して之を遠ざく。」、この鬼神こそ、孔子が言う「天」であり「人の目に見えず、超人的な力をもつ存在。」いわゆる「神」であると推測します。
いまでも、「神」の存在を信じる人は多く、科学者でも一流であればあるほど、探求しても解決しない事柄に対して、何らかの存在を考える人がいる事も事実です。
孔子か儒教か、『論語』かは分かりませんが、合理主義であるとか、現実主義という論評がありますが、主義と決めつける必要はないと、考えています。
個人的な考えだとは思いますが、『敬鬼神而遠之』や「佛神八貴し佛神越太のま須」のように思っています。私の場合には、孔子や宮本武蔵のように、敬ったり、貴しと思う事もありません。『神や仏』に礼儀を尽くすのは、私にとっては単なる習慣です。不謹慎と思う人もいると思いますが、私にとって、「分らないものは、分らない」のです。ですから、会津藩の什の掟、「ならぬことはならぬものです」と同様、考えても分からないものを、考えないようにしています。もちろん、こんな風に考えるようになるには、随分年月を要したのです。どちらかと言うと、理屈ぽく、夜も眠れず考え込む性分でしたから。
「神も仏もあるものか」とも思っていません。現実を考えた時、人知を超えた現実に直面することも、度々あります。しかし、それを「天」や「神・仏」には、思わないという事です。
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.