文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【24】

 今日の一文字は『衰』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二十三段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 末世 優雅

 
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二十三段 〔原文〕

おとろへたる末の世とはいへど、なほ九重の神さびたる有様こそ、世づかずめでたきものなれ。

露台・朝餉あさがれい何殿なにでん何門なにもんなどは、いみじとも聞ゆべし、あやしの所にもありぬべき小蔀こじとみ小板敷こいたじき高遣戸たかやりどなども、めでたくこそ聞ゆれ。「ぢんに夜のもうけせよ」といふこそいみじけれ。夜御殿よるのおとどをば、「かいともしとうよ」などいふ、又めでたし。上卿しょうけいの、陳にて事おこなへるさまは更なり、諸司しょし下人しもうどどもの、したり顔に馴れたるもをかし。さばかり寒き夜もすがら、ここかしこに眠り居たるこそをかしけれ。「内侍所の御鈴の音は、めでたく優なるものなり」とぞ、徳大寺太政大臣とくだいじの・おおきおとどは仰せられける。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『末世の衰えた世の中とはいえ、宮中の神々こうごうしい振る舞いは、俗っぽくなくすばらしい。
露台ろだい※朝餉あさがれい※何殿なにでん※何門なにもん※と言うのは、なんとも品よく聞こえる。
みすぼらしい所にある小蔀こじとみ小板敷こいたじき高遣戸たかやりどさえも立派に聞こえる。
ぢんに夜のもうけせよ」すなわち「陣屋に明かりを灯せ」と言う方も良い。夜御殿よるのおとど(寝室)に、急いで明かりを準備しろ、と言う事を「かいともしとうよ」と言う。また喜ばしい。
執行の責任者が陣屋で仕事をしている様子は更に見事である。下級役人が馴れた手際も風情がある。このように寒い夜にも、あちらこちらで居眠りする姿も趣深い。
「内侍所の御鈴の音は、見事で優雅なものである」と、徳大寺太政大臣藤原公孝が仰せられたということだ。』

【言葉の説明】
露台ろだい:(1)屋根のない板敷きの台。(2)宮中の紫宸殿ししんでん仁寿殿じじゆうでんとの間にある渡殿わたどのの、屋根のない板敷きの所。節会せちえのとき、ここで侍臣たちの乱舞が行われた。
朝餉あさがれい:(1)天皇のとる簡単な食事。表向きの食事の「大床子だいしやうじ御膳おもの」に対していう。朝食とは限らない。(2)「朝餉の間」の略。
小蔀こじとみ:(1)「しとみ」のある小窓。明かり取りなどのために設ける。(2)特に、清涼殿の「御座おまし」と「殿上てんじやうの間」との間の壁にある(1)。これを通して、天皇が殿上人の詰める殿上の間を見られる。
以上(出典:学研全訳古語辞典 学研.)
小板敷こいたじき:清涼殿の南面の小庭から殿上の間にのぼる所にある板敷き。蔵人くろうど職事しきじらが伺候する所(出典:デジタル大辞泉 小学館.)
高遣戸たかやりど:1. 高い所につくった引き戸。
2.清涼殿の南の殿にある引き戸。(出典:デジタル大辞泉 小学館.)
以下は、推測です。
何殿なにでん:大きく立派な建物の事で、ここでは「清涼殿」「紫宸殿」などを指していると思われます。
何門なにもん:建春門や建礼門の事を表していると思われます。

 

『末世』

 兼好の時代、今から700年程前に、末世と言われた時代があったのですね。

 末世と言うのは、世紀末ではなく、仏法の衰えた状態、道義が廃れた状態の事を言うと思います。そういう意味では、現在のような国を支える人の、倫理観は、末世と言ってもいいかも知れません。

 仏法と言うと、私など無宗教の者には馴染みがありませんが、要するに規範が崩れているとしたら、今も同じような時代なのかも知れません。

〔常識〕

 これも、価値観の多様化と言われて随分経ちますが、価値観の多様化も、行き過ぎると、個人主義、利己主義、そして身勝手な考え方になってしまいます。

 兼好は、言い方に風情がある、と言いたいのだと思いますが、それは、前回も書きましたが、価値観の違いからくるものだと思います。

 今も昔も、年代に応じた常識と呼ばれるものがあります。この常識が曲者で、大人から見ると、子供のする事は、一々非常識に見えます。また、これは、前にも〔『徒然草』を読んで見る。【24】〕にも書きましたが、「向いている方向が違うと、見える景色も違う」と言う事で、非常識も別の見方をすると、生きる目標が違ったり、目的が違う事から、立ち位置が違うものになります。ですから、見える物が違うようになると思うのです。

〔言葉〕

 特に言葉は、広辞苑が今年の初めに10年ぶりに新しくなり、新語1万語を追加されました。1万語ですよ。現代社会に必須の言葉を選んだと書かれてありますので、話す言葉も書く言葉も違って当然でしょう。

 例えば、兼好の言う、「ぢんに夜のもうけせよ」と言われても、700年も経過すると、意味さえ分からなくなります。

 私は、新語1万語については、賛成する気持ちになれません。その理由は、新しい時代の人が、昔の書籍を読むのに、相当苦労してしまう事です。

 流行は流行で良いのですが、辞書にしてしまうと、これが基準なってしまいます。作る側の気持ちが解らない分けでは無いですが、「広辞苑」ですから、流行を追う必要はないと思うのですが。

 このブログでも、昔の人が書いた物を、文武両道の気持ちで、読み解いていますが、折角の文献でも、文字の解釈により、随分内容を変えてしまいかねない事を危惧しています。

 僅か私が生まれる10年ほど前に出版された「空手道教範」【富名腰義珍著作】を読むのに、随分苦労しました。空手道における型について【1】】~【33】

 なぜ、この本を現代文に直したかと言うと、私自身がそのままだと読めない事と、私の生まれた以後に、教育が戦前の教育と内容から方針まで、著しく変化したと言う事にあります。

 まず、通常使われていた漢字の中から、取捨選択され、旧字体というものができ、旧字体は原則として、義務教育では教えないようになりました。

 であれば、当然戦前より前に発行された、書籍を読むには、それに適した辞書を横に置いて読む事になります。

 一番の危惧は、私が陥った事です。難しい言葉には、なんだか重々しく深遠な意味が含まれているように感じてしまうのです。もう一つは、難しい言葉で言うと、権威を感じて、それほどの内容は無くても、意味あるように誤解してしまいます。これは、勉強の出来ない私特有の感覚かも知れません。

 空手で言えば、「チンクチをかける」「ガマクを入れる」「ムチミを使う」と言う沖縄の方言です。これを極意と言ってしまうと、何だかスゴイ事だと信じてしまうのです。
 「チンクチ」とは、脇から広背筋にかけての部分、「ガマク」は丹田を中心に腰の周りの部分、「ムチミ」は、鞭のようにしなった体の使い方を、沖縄の方言で言うと、なんだかありがたいように思ってしまいます。

 確かに、「チンクチ」にしても「ガマク」、「ムチミ」も解剖学上の言葉を使うと、少しニュアンスが変わってしまい、より通じなくなります。

 だからと言って、この言葉の意味する所は、確かに極意と言うのに相応し、身体の微妙な動かし方を表現していると思います。

 言葉に極意がある分けでは無く、自分で体得しないと、どんなに簡単な現在の言葉で表現しても、全てを言い表す事は出来ません。しかし、オブラートで包んで、難しい事をより難しくしてしまわなくても良いと思っています。

〔独善〕

 しかし、世の中には、難しい言葉を使って、権威を現わしたり、ちょっと小賢しいテクニックを使う人が多いようです。例えば、会話の中に横文字を入れたりすると、ちょっと賢いように思えるじゃないですか。

 その場で聞ける雰囲気では無い時、家に帰ってから、その言葉を辞書で調べて見て、何だ、日本語で言えよ、とか思います。

 出来れば、専門用語を使わないで、誰でも分かる言葉で、書いたり話したりする方が、好感がもてます。これも、結構難しいですが、なるべくなら相手にストレートに伝わる方が良いと思います。 

 

『優雅』

 『なほ九重の神さびたる有様こそ、世づかずめでたきものなれ。』これは、言葉ではなく、振る舞いが、優雅であると言っています。

 さて、私にもこの「優雅」と言う言葉、何となくは分かるのですが、書道の本の説明に「典雅」と言う言葉が使われていました。

 まず、この言葉を耳にした時、目にした時に、私は拒絶反応を起こしてしまいます。困ったものです。教養の無さを露呈したような、恥ずかしい思いです。

 先に書きましたが、「優雅」とか「典雅」と言う言葉を難しく感じない人は良いのですが、相手の言いたいことが伝わってこないのです。

 「優雅」と言う言葉を辞書で調べますと、「上品でみやびやかなこと。やさしい美しさのあること。また、そのさま。」(出典 :大辞林第三版 三省堂.)とあります。

 この中で、「みやびやか」とありますが、直ぐに解る人は、教養のある人でしょう。私は「みやびやか」の意味は分かるのですが、ピンと来ません。

 そこで、またまた、「みやびやか」を辞書で引いてみます。「上品で優雅なさま。風雅なさま。」(出典 :大辞林第三版 三省堂.)、ますます解りません。どうも「雅」が解らない原因かも知れません。

 そして、「雅」と言えば、「宮廷風であること。上品で優美なこと。また、そのさま。風雅。風流。」(出典 :大辞林第三版 三省堂.)とありました。

 結果、「宮廷」がネックだと考えました。

 宮廷に住んだこともありませんし、宮廷の事に詳しいわけでもありません。であれば、ピンとこないのは当然と言えば当然だと思います。

 世の中には、このように自分で解らない、経験も体験も、調査もしないで、言葉を一過性のものとして使われているのではないでしょうか。

 少なくとも、書籍や書いた物は、一般の知識があれば読めて理解できる範囲で記述してもらいたいと思います。

 それで、宮廷は分かりませんが、神社やお寺でお参りする時の、動作や声の大きさを想定しました。

 まず、歩く動作は、ゆっくりと、かと言って「ナマケモノ」のようにゆっくり過ぎず、動作も同じで静かに行う様子だと思います。そして、発する声も、叫ばず、かと言って相手に聞こえないようなものではなく、聞こえる範囲で静かに話す方が良いでしょう。

 さて、話す内容も、下世話な話より、すこし高尚な方が好ましいと思います。この高尚というのも、テーマを選ぶのに困りますが、下ネタはやめた方が無難です。そして笑い方も、ゲラゲラ膝を叩いて笑う事は避けた方が良いでしょう。
立ち振る舞い

 このあたりまで書くと、要するに礼節に適った言動をすると言う事が解ると思います。