「五輪書」から学ぶ Part-81
【風之巻】他流に目付と云ふ事

 【五輪書から】何を学ぶか?  

 目付と言われるのは、武道を行う上で、重要な要素になります。『目は口程に物を言う』『一目瞭然』『目から鱗』『目が届く』等々、目に関する言葉は、挙げ始めればキリが無いほどあります。

 武道ではなぜ目が大事なのかと言いますと、目は心の窓と言いますから、自分が思ったことが、まず目に現れるので、自分の動きを相手に先読みされてしまうからです。
 もう一つは、相手の動きを見るのも、目からの情報が大半になります。その見方については、『観見』と言う言葉でも伝えられますが、熟練すれば通常物を見るのとは違った見方が出来るようになります。大変重要な事だと思っています。

 今ここでは、武道、武術、格闘技を中心に話を進めていますが、目と言うものは、何も武道に関連するだけのものではありません。

 例えば、球技においても、目からの情報で球を捕え、打ち、受ける等の技術を表現しています。私は、少しかじっただけですが、器械体操でも、ある程度練習を積むと、空中で天井や床の状況が分かるようになります。ですから、オリンピックなどで見る事ができる、極まった着地を見る事ができるのです。

 ただ、武蔵は、当時その大切な目の使い方を、間違って伝えている他の流儀の現状に対して、警告しているのが、今回のテーマです。

【風之巻】の構成

1. 兵法、他流の道を知る事
2. 他流に大なる太刀を持つ事
3. 他流におゐてつよみの太刀と云事
4. 他流に短き太刀を用ゆる事
5. 他流に太刀かず多き事
6. 他流に太刀の搆を用ゆる事   
7. 他流に目付と云ふ事
8. 他流に足つかひ有る事
9. 他の兵法に早きを用ゆる事
10. 他流に奥表と云ふ事
11. 後書
 
『原文』
7. 他流に目付と云ふ事 (原文は、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlを引用した)
目付と云て、其流により、敵の太刀に目を付るも有、又ハ手に目を付る流も有。或ハ顔に目を付、或ハ足などに目を付るも有。其ごとくに、とりわけて目をつけんとしてハ、まぎるゝ心有て、兵法の病と云物になる也。其子細ハ、鞠をける人ハ、まりによく目をつけねども、びんずりをけ、おひまりをしながしても、けまわりても、ける事、物になるゝと云所あれバ、たしかに目に見るに及ばず。又、ほうかなどするものゝわざにも、其道に馴てハ、戸びらを鼻にたて、刀をいくこしもたまなどに取事、是皆、たしかに目付ハなけれども、不断手にふれぬれバ、おのづからミゆる所也。(1)
兵法の道におゐても、其敵/\としなれ、人の心の軽重を覚へ、道をおこなひ得てハ、太刀の遠近遅速も、皆見ゆる儀也。兵法の目付ハ、大かた其人の心に付たる眼也。大分の兵法に至ても、
其敵の人数の位に付たる眼也。観見二つの見様、観の目強くして、敵の心を見、其場の位を見、大に目を付て、其戦の景氣を見、そのをり節の強弱を見て、まさしく勝事を得事、専也。大小の兵法におゐて、ちいさく目を付る事なし。前にも記すごとく、こまかにちいさく目を付るによつて、大きなる事をとりわすれ、目まよふ心出て、たしかなる勝をぬかすもの也。此利能々吟味して、鍛練有べき也。(2) 
【リンク】(1)(2)は【註解】として、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」にリンクされています。

 『現代文として要約』

 7. 他流に目付と云ふ事

 目付と言って、その流儀により、敵の太刀を見るのも、又手を見る流儀もある。あるいは、顔、足などを見る。どこかに拘って見ると、混乱する。兵法の病と言うものになる。
 例を挙げると、鞠を蹴る人は、鞠をよく見ていないが、『びんずり』を蹴り、『おひまり』をしながら蹴り回しても蹴る時は、確かに目で見てはいない。ジャグリングの技にも、慣れれば、戸板を鼻に乗せて、刀を幾つも手玉に取る。これは皆、投げている物は見ないが、いつも練習しているので、自然に見えるものである。
 兵法の道でも、その敵、また敵と戦い慣れ、人の心の浮き沈みを覚え、兵法の道を実戦して覚えれば、太刀の遠近遅速も、皆見えるようになる。兵法の目付は、大方その人の心に付けた眼である。
 合戦においても、その敵の人数の勢いを観察した眼である。観見二つの見方は、観の目強く相手の心を見て状況を把握し、全体を見通し景気を見て、その時々の節目の強弱に合わせて、まさしく勝つ事ができる。
 合戦や一対一の兵法において、細部を見る事はない。前にも書いた通り、細かい事に気を取られて、大事な事に気がいかず、迷いの心が生じて、確かな勝ちを逃がしてしまうものである。この理論をよく考えて、鍛練する必要がある。

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 『私見』

 『びんずり』・『おひまり』、については調べても分からなかったので、播磨武蔵研究会の通り、当時の蹴鞠の技と理解し、その名前を、要約することなく記載しました。『戸びら』は、どうも扉とするのは、納得がいかないので、曲芸を想定して、戸板としました。これは、戸板でなくても、少し大きい物を鼻の上にバランスを取って、乗せる意味と思います。また、『ほうか』も後の文章から、現在のジャグリングではないかと推測しました。
 ただし、内容を覆すような言葉ではないので、『現代文として要約』では、ジャグリングとしました。

 さて、本筋に戻り、目付についての考え方を述べます。
 先日も、道場で見える事と見る事の違いを話しました。私は、高校の時に動体視力を簡易ですが、計った事がありました。まったく平凡な数値であったと記憶しています。

 しかし、古希を過ぎた今でも、相手の突き蹴りは良く分かります。私は普通の生活では近視の眼鏡をかけています。目の検査表では、一番上の記号がぼやけています。検査表の0.1か0.2と言う所でしょうか。それでも、組手の時は、眼鏡を外します。
 今でも相手の突き蹴りは良く分かります、と書いたのは、はっきりと見えている分けでは無い事を伝えたかったのです。

 武蔵は慣れと言っていますが、私は、慣れる事によって、見ると言う感覚から見える感覚、すなわち見ると言う能動的な感覚ではなく、見えるという受動的な感覚になるという事です。見えると言うのは、あくまでも自分で感じる、見えてるで、検査表の記号がはっきり見えるのとは、同じ見えるでも違います。

 もう少し具体的に言うと、ボーと見えてる事を、はっきり見えてると認識する事です。言い方を変えれば、遠くを見ながら近くを認識する事です。武蔵の言う、観の目です。この感覚は前にも書きましたが、壁から50cm程離れて、真直ぐ前を見て、壁の床と壁のつなぎ目を見る練習を重ねる事で会得できると思います。

 基本組手を通して、この見える感覚が分かるようになれば、自由組手の中で身に付ければ、観の目の意味が分かると思います。

 【参考文献】 
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

   【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html