さて、今日は「不動智神妙録」の十番目の項目にある、応無所住而生其心を紹介しながら、読み解いて行くことにしましょう。
- 応無所住而生其心
応無所住而生其心、此文字を読み候へば、をうむしよじうじじやうごしん、と読み候。
万の業をするに、せうと思ふ心が生ずれば、其する事に心が止るなり。然る間止る所なくして心を生ずべしとなり。
心の生ずる所に生せされば、手も行かず。行けばそこに止る心を生じて、其事をしながら止る事なきを、諸道の名人と申すなり。
此止る心から執着の心起り、輪廻も是れより起り、此止る心、生死のきづなと成り申し候。
花紅葉を見て、花紅葉を見る心は生じながら、其所に止らぬを詮と致し候。
慈円の歌に「柴の戸に匂はん花もさもあらばあれ、ながめにけりな恨めしの世や」。花は無心に匂ひぬるを、我は心を花にとゞめて、ながめけるよと、身の是れにそみたる心が恨めしと也。
見るとも聞くとも、一所に心を止めぬを、至極とする事にて候。
【出典】池田諭(1975)『不動智神妙録』, p.68.-p.75.【読み解き】
ここでも、「不動智」についての説明が続いているのですが、本題が「不動智神妙録」だから、もっともな話ではありますが・・・・。
ここでは、その止まる心が、執着となり、輪廻(参照)もここから始まると言っています。
「敬の字」については、Part6「心の置き所」に、[別所に記し信じ可レ有二御覧一候。]とありましたので、ここでその意味を説明しています。
敬の字は、仏法の教えにあり、「敬白(参照)の鐘」という仏教上の作法について取り上げ、修行の過程では、仏様に鐘をならして、手を合わせる時に一心不乱に行う事が求められます。しかし、これも修行を積み重ねれば、特に心を一心にせずとも、本来の作法にのっとる事ができ、これが応無所住の位であり、向上至極の位であると説きます。
猫を引き合いに出し、悪さをしないように縄でしばるより、躾をしっかりすれば良いと、例えています。少し現在では想像しにくいのかな、と思ったりもします。
Part6「心の置き所」の【読み解き】で、私の言葉として「無心の前の一心」という事を述べましたが、確かに無心になるための方策であり、一心であるから、無心になれるのではないと思います。無心になるための、一心でなければなりません。
では、ここで紹介している「不動智神妙録」を理解すれば、不動智の心境に到達できるのでしょうか。Part3にあるように「理業一致」でなければなりません。
これも、道場でよく言いますが、「物には仕方がある」と言う言葉のように、目的がハッキリして、初めて到達できると思っています。
では、私はどうなのかと言うと、試行錯誤と失敗の連続で、この歳を重ねています。もっと早く「仕方」が解っていたら、と思いながら、名人にも達人にもなれないで、修行半ばの修行をしています。いつの日か、仙人になるために・・・・。
まさに、今年の年賀状に書いた、種田山頭火の句の心境です。「分け入っても 分け入っても
青い山」【参照】
・輪廻 : 生あるものが死後、迷いの世界である三界・六道を次の世に向けて生と死とを繰り返すこと。インド思想に広くみられる考えで、仏教の基本的な概念。[出典]大辞林第三版.
・敬白:謹んで申し上げること。[出典]大辞林第三版.【参考文献】
・池田諭(1970-1999)『不動智神妙録』 徳間書店.
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