『礼と節』と言葉を知っているだけで、その内容を説明できる人がどんどんと減ってきているように思います。
暴力を無くす事はとても良い事です。
まだ、100年も経っていない時代に、「まあ待て、話せば分かる」「問答無用」と言って当時の内閣総理大臣犬養毅を、武装した海軍の青年将校たちが襲い、殺害した5.15事件が想起されます。
この時の犬飼毅氏の言葉についてではなく、この「話せば分かる」事が問題であって、最近では、テレビ番組でも、まともに「話す事ができない」人達がいます。言葉を生業にしている人達こそ、言葉も暴力と同じくらい相手を傷つけてしまうという事を、よく知った上で言葉を発しなければなりません。「話せば」こそ、礼儀が必要ではないかと思うのです。
今回も、聖徳太子の『十七条憲法』の内、『礼節』に深くかかわり合いのある条を取り出して、考えて見る事にしましょう。
前回同様原文は、下記のバーをクリックすると見る事が出来ます。
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1.和を以て貴しとなす。という、有名な言葉を一番最初書いています。
2.仏・法・僧を信奉しなさい。
3.王(天皇)の命令に、謹んで服従しなければ、国家の存亡にかかわる。
4.上の者が礼を遵守しなければ、下の秩序はみだれ、下の者が無礼であれば罪人を作る。
5.法を行う者は、接待や供与を受けず、厳正に審判すること。
6.面従腹背の輩は、国家を滅ぼす。
7.権限の乱用は国家の存続をおびやかす。
8.公務につく者は、早く出勤し、遅く退出する。
9.真心は人の道の根本である。真心をもって仕事をすること。
10.人間は賢愚を同時に備えている。耳輪に端がないのと同じである。自分がすべて正しいと言う考えを持たない事。
11.信賞必罰の励行。
12.税金は重複して取ってはならない。
13.職務に対しては熟知し、公務を停滞させてはいけない。
14.嫉妬の禁止。
15.私心を捨てて公務にあたる事。
16.人民を使役する時は、時期、環境を考えてする。
17.重大な事柄を判断する時は、必ず衆知を集め議論したうえで決める事。
上記の十七条の内、『礼節』に関係するものと考えた条を、濃い文字にしました。そして、一つづつの条が下の図の、節度の壁を超えると、礼節を欠いた言動と言う事になります。(この図は日本空手道髓心会ホームページの『礼と節』の項目内で自作したものです)
さて、濃い色の文字に変えた各条を、考えて見ましょう。
第一条は、1.和を以て貴しとなす。ですから、仲良くしなさい、という事です。では、どうすれば仲良くなれるかが、次の文章に書かれてあります。『無忤為宗』とありますから、そのまま読むと『忤(さから)うこと無(なき)を宗(むね)と為(な)す』と読めます。次の『人皆有黨』から後の部分を一緒に見て見ましょう。『亦少達者 是以或不順君父 乍違于隣里 然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成』、この漢文を読みますと、次のようになります。
『人皆党有り、亦達者少なし。是を以て、或いは君父に順わず、にわかに隣里と違う。然れども、上和ぎ下睦びて、論う事が諧うに於いて、則ち事理自ずから通ず。何事か成らざらん。』
これを、もう少し現代風にしますと、
『人に逆らわないようにして、人と仲良くしなさい。人には考えの合う人、合わない人がいて仲間をつくる。しかしその仲間の中に、その道に熟達している人は少ない。だから、上の者や父に従わず、すぐに隣の村の者と争う。しかし、上の者が和らぎ、下の者がむつまじくすると、議論する事ができ、直ぐに物事が解決する。』
こんな風に読み解く事ができると思います。
まったく、今と変わらないのではないのでしょうか。特に現代は、自分が賢い、その道に通じていると思っている人の如何に多い事でしょう。
近頃のテレビ番組に出演している、知識人や有識者と言われている人を見ていますと、そんな気持ちを持ってしまいます。
この第一条を読んでみますと、そんな事だから物事の解決を見ないのですよと、言われている気がします。
このブログを読んでいる人や、髓心会のホームページを見ている人は、船越義珍師の『謹慎謙譲空手道最大の美徳』という言葉を思い出すと思います。
昔から、声の大きい人の意見が通る事が多いと言われています。物理的な声の大きさではなく、威圧的とか高圧的であるとか、人の意見に耳をかさずに、自分の意見をあくまでも主張する人の事を言います。
『礼』とは、人の意見を聞き、自らの至らない事を知り、人となごやかに接する事を表しているのではないかと、思います。
それにしても、1500年も前に「上の者が和らぎ、下の者がむつまじくすると、議論する事ができる」と書いている事に、驚きを感じます。「仲良くなれる」ではなく、「議論する事ができる」という発想が生まれる土壌があったのでしょうか、それとも聖徳太子の理想だったのでしょうか。
この十七条憲法が掲げられて、1500年もの月日が流れ、人間は少しは進歩したのでしょうか。世界中が、進むべき道の岐路に立たされているのではないかと思います。