論語を読んで見よう
【公冶長篇5-26】
[第二十二講 子路-微笑ましき無理解者]

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 「志」と言うと、「少年よ大志を抱け」と言ったクラーク博士が頭を過ります。札幌農学校の初代教頭だったと記憶しています。

 この「少年よ大志を抱け」と言う言葉も、色々バリエーションがあるようで、一つには次のような全文を見つけました。
 「Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.」「少年よ。大志を抱け。金銭や私欲を求める大志であってはならない。名声などと呼ばれる泡沫のものを求める大志ではあってはならない。人としてなすべき全ての本分に対してのものであれ(出典:トレンドジャンプ! URL:http://samuraitax.com/2018/01/19/クラーク博士の名言の意味)

 この「ambitious」の意味が「大志」ではなく「野心」であるとか、クラーク博士は、実は俗人であったとか、色々な評価があります。
 私は、このクラーク博士についても、どうでも良い事だと思っています。この人を知らないのですから、孔子と同じです。しかし、残っている言葉には、意味があります。この「ambitious」の意味が「大志」として訳し、後世に残した事に意味があります。訳した人が偉いと言えますが。

 私が生きた僅かな期間であっても、人の評価は様々です。私は生きている人の価値は、その足跡だと思っています。そして歴史上の人物の評価は、遺稿であり遺物が評価の対象になると思います。推測、憶測は何の役にも立ちません。クラーク博士も、例え誤訳であろうとも、若者に希望と志を持たせる事ができたとしたら、それで良いのではないでしょうか。

 ここでは、孔子とその弟子が志について話をしています。
●白文

『顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣裘、与朋友共敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施労、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之』。
●読み下し文
顔淵がんえん季路きろす。子のたまわく、なんぞ各々おのおの汝のこころざしを言わざる。子路しろいわく、ねがわくは車馬しゃば衣裘いきゅう、朋友と共にし、これをやぶるともうらみ無けん。顔淵いわく、願わくは善にほこること無く、労を施すこと無けん。子路いわく、願わくは子の志を聞かん。子いわく、老者には安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれをなつけん
』。【公冶長篇5-26】

 ここで、季路と初めに書いてありながら、季路はその後の文章には出てきません。間違いではないのかと、思いましたが、子路の事を季路と言う事もあると言うのです。なんと、紛らわしいですね。

 現代文に直して見ますが、子路に統一する事にします。
 『顔淵と子路が孔子の傍にいます。孔子が二人にどういう人に成りたいか、志を聞きました。子路は、友人が自分の物を使って汚したり壊したりしても平気でいたい。と言いました。顔淵は、善行をして辛い事を人に押し付けないようにしたい。と言いました。子路が先生はどのように考えていますか、と尋ねると、孔子は、老人には安心され、友達を信じ、若者からは慕われる、そんな人物になりたい、と答えました』

 三人三様の志を見る事ができます。一見他愛もないやり取りで、孔子以外の人の言葉は、表面的にも見えますが、意外と含蓄のある言葉に思えます。

 まず、子路の言葉から見て見ましょう。朋友ですから仲間と言えます。その仲間が自分の物を使って、汚したり壊したりしても、恨まないようにしたいと言っています。
 私から言うと、当然だと思いますが、中には友達と言えども怒る人はいます。もちろん、人の物を借りて汚したり壊したりしたら、当然弁償するのが当たり前だと思います。これは、貸した側の心理と借りた側に立つのとでは、意識も変わると思います。
 それでも、友人だからと、人の物を勝手に使って良いと言うものではないと思います。「親しき中にも礼儀あり」と言うではありませんか。

 私の知る限りでは、韓国は儒教の国であると思っています。しかし子路の言葉も行き過ぎると、「親しき中にも礼儀あり」が「「親しき中には礼儀なし」になってしまうのでしょうか。
 又聞きなので信ぴょう性は分かりませんが、何となくそんな気もするので、書いて見ます。ある人の韓国の友達が家に来た時、平気でその部屋に置いてある物を持って帰るのだと、言っていました。友達のものでも、小銭なら使っても許されるようです。それを許さない友人はだめなんだそうです。韓国の人の常識なのか、その人の常識なのか、分かりませんが。私の友人にはなってほしいとは、思いません。

 次に顔淵の言葉ですが、これは、確かに、と頷ける言葉です。そうありたいものです。
 しかし、世の中には、全く逆の人が多い事も事実です。特に私の目からは、権力のある人に多い傾向です。
 自分の善行を宣伝し、一緒に仕事をすると、さも忙しそうに楽な仕事を選び、大変な仕事は人に押し付けるのが、管理能力と思っている人がいるのを、この目で見てきました。仕事を任せる事と勘違いしているのでしょう。
 私は、部下が働きやすい環境を作れる人が、管理能力のある人だと思っています。
 一緒に仕事をするなら兎も角、そんな時は、うまくその場からいなくなる人もいました。特権意識なのでしょう。私には理解不能です。
 こういう人ほど、部下の手柄を、さも自分の手柄のように吹聴していたような記憶があります。
 もしかしたら、帝王学なのかも知れませんし、孔子の言う『君子』と『小人』の役割なのかも知れません。封建社会、身分制度の根幹の思想だと思います。

 孔子は、身分制度の復活こそ『徳治政治』と思っていたのかも知れません。人間が平等であると教育されて育った、現在の人たちに受け入れられるには、随分と高い壁ではないかと思います。

 私は、制度としては、『君主制度』が最高の制度だとは思います。しかし、あくまでも、君主が『神』である場合だけだと思います。だからこそ、思想のみで歴史は繰り返してきたのではないでしょうか。

 勝手な考えかもしれませんが、身分制度ではなく、区別制度(勝手に言ってます)の方が、受け入れられやすいのではないでしょうか。人はすべての面で平等である分けはないのです。出来る事も、知識もみんな違います。それは公平に区別されるべきです。
 その区別によって出来る事が違ってきますから、対価も違うのが自然です。そして、区別された人たちには、次の区別への道があります。努力と才能の活かし方によって、区別の階段を上っていく事も出来ると思います。
 その区別の尺度は、経済的な理由ではなく、善行かどうかの尺度を覆さない事、ゆるがない事が大切だと思っています。

 孔子の言う言葉は、余りにも抽象的過ぎて、反論する気持ちはありませんが、難しいだろうな。と思います。言うのはいたって簡単なのですが、実際にみんなから良い評価を得ようとするのは、いわゆる八方美人的な考えだと思います。

 もちろん、このように全ての人に受け入れられれば、良いのですが、人と人の関係は、相関関係ですから、こちらが思っても相手のある事ですから、現実には難しいと思っています。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.

 

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