論語を読んで見よう
【公冶長篇5-7】
[第二十三講 子路-ユーモラスな名傍役]

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 バイプレーヤーと言う言葉が定着したように思います。先月に大杉れんと言う、かけがえのないバイプレーヤーが亡くなりました。私より若くして亡くなる人が、時々ニュースになりますが、こういう役者が亡くなると惜しい気持ちがします。他にも沢山の名脇役と呼ばれる人がいて、ドラマや映画を支えていると言っても良いと思います。

 昔から、牛若丸には弁慶、武田信玄には山本勘助(菅助)、黒田官兵衛も有名な脇役、というより補佐する人の方が偉かったかも知れません。ただ、役割分担と言う面から考えると、上に立つ人も支える人も、適任だったのかも知れません。

 今回スポットが当たっているのは、子路と言う孔子の弟子ですが、この人は、前回季路と呼ばれていましたが、今回は由と言われています。孔門十哲の一人と言われていますが、『論語』にしばしば顔を見せる印象は、質実剛健で少し軽率な所が見えますが、憎めない人情味のある人のように思います。勝手なイメージですが、子路は、弟子と言うより、孔子の子分か、用心棒のような人のような気がします。孔子に惹かれていたのでしょう。

 『グラフィック版論語』では、子路について、「アンチ書斎派の子路。かれは、無頼漢あがりである。街なかで孔子にけんかをふっかけたところ、逆にやり込められて弟子入りした」とあります。まるで、牛若丸と弁慶の出会いのようです。

 弁慶にしても、この子路にしても、あまり賢いように伝わっていませんが、こういう人の事を、「徳」がある人というのかも知れません。

 さて、『論語』の中では、どんな子路が見れますか。読んで見たいと思います。
●白文

『子曰、道不行、乗桴浮於海、従我者其由也与、子路聞之喜、子曰、由也好勇過我、無所取材』。
●読み下し文
『子のたまわく、道行われず、いかだに乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それゆうなるか。子路しろこれを聞きて喜ぶ。子曰く、由や、勇を好むこと我に過ぎたり。ざいを取る所なからん』。【公冶長篇5-7】

 また、現代文にして見ましょう。前回同様、由というのは子路の名前です。
 『孔子が理想の政治が行われない事に業を煮やして、筏に乗って遠くの国にでも行こうか。自分に従ってくるのは子路か。この言葉を聞いて子路は喜びました。しかし、孔子は、子路は勇敢なのは私以上だが、筏の材料は揃えられないだろう。』

 なんども、孔子の気持ちが落ち込む様子が、『論語』には出てきます。確かに、理想を掲げてそれを実現させようと思うと、挫折したくなる気持ちは、充分に理解し、共感できる所です。

 孔子であろうと、釈迦であろうと、キリストであろうと、理想を掲げてその理想が現実になった事は、ありません。言い伝えられたり、人の心に大きく影響を与えた事はありますが、どんな思想、経典と呼べるものであっても、全ての人に行き渡るには、それなりに時間もかかりますし、歴史の流れに風化されてしまう事もあるでしょう。

 聖人と言われる人と比べる事は、余りにも不遜であるとは思いますが、空手道を通じて、精神的にも肉体的にも、人が人を傷つけないような『道』があると信じ『髓心』と言う、誰もが共通に持ち合わせている、自分に出会える方法を説いていますが、なかなか理解を得る事は、難しいと思っています。

 波のように、使命感に鼓舞される事もありますし、最澄の言う一燈照隅いっとうしょぐう 万燈照国ばんとうしょうこうを信じて、その火を消さないようにしたいと思っています。

 孔子は高邁な理想を掲げ、目的を達する為の努力をしたのでしょうが、幾度も挫折感を味わった事と思います。そんなとき、仁義に熱く、情の深い、子路のような弟子の存在は、孔子にとって、どれだけ心を休められた事でしょう。

 初めに、バイプレーヤーと書きましたが、「悪名」(今東光著)のセリフに出てくる、「梅に鶯、松に鶴、牡丹に唐獅子、朝吉親分に清次」勝新・田宮二郎の朝吉・清次コンビと比べるのは、どうかと思いますが、そんな関係がイメージされます。

 歴史上の有名な人には、そんな相棒がいたのかも知れません。一人だけが有名になっても、人には支えが、「人」と言う文字の通り、必要なのかも知れません。裏になるか表になるかは別問題で、そんな関係になるためにも、両方に「徳」が必要なのかも知れません。

 「管鮑の交わり」の管仲かんちゅう鮑叔ほうしゅくみたいなものかも、知れません。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.

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