論語を読んで見よう
【雍也篇6-11】
[第二十八講 顔回-仁に安んずる者]

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 『不動智神妙録』に沢庵和尚がでてきます。吉川英治の宮本武蔵にも沢庵和尚は登場します。名前は沢庵宗彭たくあんそうほう(1573-1646)。
 「分け入っても分け言っても青い山」でお馴染みの種田山頭火たねださんとうか(1882-1940)。

 どちらも、波乱万丈の人生を送り、足跡を世に残しました。

 山頭火と言うと、ラーメン屋さんと言われた事がありました。私もラーメンは好きですが、一度食べて見たいと思っています。

 ここに書いた山頭火は、ラーメン屋さんではありません。廃人のような俳人です。

 二人とも廃人ではなく、身なりを構わない人と言った感じです。写真や絵だけを見ての印象ですが。

 今日登場する顔回、姓は顔、名が回、字は子淵。孔子より30歳年少。父顔路も孔子の弟子であったと、『グラフィック版論語』に記載されています。『グラフィック版論語』だけでなく、色々書物を調べて見ますと、顔回のイメージは、「仙人」のようです。

 先述しました、沢庵和尚や種田山頭火を彷彿とさせる、印象を持っています。本当にそうかは、分かりません。どの人もあった事もありませんし、話したこともありませんから。

 今回は、そんな想像をしながら、読んで見る事にします。
●白文
『子曰、賢哉回也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽、賢哉回也』。
●読み下し文>
『子のたまわく、賢なるかなかいや、一箪いったん一瓢いっぴょういん陋巷ろうこうに在り。人はうれいにえず、回は其の楽しみを改めず。賢なるかな回や』。【雍也篇6-11】

 
 いつもと同じように意訳から入りましょう。
 『先生が、顔回は偉い。僅かな食べ物、瓢箪に入った水、狭く汚い路地に住んでいる。普通の人はそのつらさに耐えられない、顔回はその生活を楽しみ、変えようとしない。回は、実に偉い』。

 「賢」と言う文字を、偉い、と訳しましたが、漢字からは、賢いと訳すべきと思いましたが、内容から見ると、人格が優れているように思ったので、偉い、としました。賢者と言うのも偉い人なのでしょうが、まったく私の勝手なイメージです。
 偉いと言っても、その人の考え方により、色々違うものと思います。私は、初めに書きましたが、沢庵和尚や種田山頭火のような、一種世の中を達観した感じをイメージしましたので、偉いとしました。

 偉いと言う言葉は、人によって、時代によって、場面によって、色んな意味で使われる言葉です。孔子が言う、「賢」と言うのも、子貢に言う「賢」と、顔回に対して使う「賢」とは、全く意味合いが違います。

 子貢の「賢」は、今で言う、エリート官僚のようなものでしょうか。学校での成績がよく、知識は十二分にあるのですが、どこか世間一般で言われる常識に疎い感じもします。また、文章だけで判断するのは良くありませんが、プライドの高さもあるように感じています。

 その点、顔回の事を孔子は、為政篇2-9に『子曰、吾与回言終日、不違如愚、退而省其私、亦足以発、回也不愚』。と言っています。「顔回と終日話していても、まったく反論する事もなく、だまって聞いている、まるで馬鹿のようだ。しかし、彼の私生活を見ると、逆に私の方が教えられる。回は決して馬鹿ではない 」と言う内容です。

 他にも顔回については、『論語』に何度も登場しますが、この為政篇2-9だけでも、生き方として、「偉い」と思ってしまいます。

 なぜなら、私は呑み込みが悪いのか、人の話を最後まで聞かないくせに、疑問に感じると、相手の迷惑も顧みず、納得するまで質問する癖があります。

 前にも引用しましたが、『論語』公冶長篇5-8『子謂子貢曰。女與回也孰愈。對曰。賜也何敢望回。回也聞一以知十。賜也聞一以知二。子曰。弗如也。吾與女弗如也。』にあるように、一を聞いて十を知るのが顔回です。孔子も子貢もこの文章で顔回を認めています。

 意外と知識人と言われる人達は、勉強が出来るせいか、自分の考えに固執する傾向があります。私から見ると、「偉い」とは、思えないのです。確かに「かしこい」とは思います。劣等生の私から見ると「賢い」のですが、人間はそれだけでは、偉くなれないと、思っています。

 沢庵和尚や種田山頭火を、実際には知りませんが、遺稿を見ると、なんだか惹かれる思いがします。魅力的に感じるのです。こればかりは、主観ですから、客観的な表現は出来ません。
 私は、臭いとか、汚いと言うのは、好きではありません。出来れば英国紳士のようにありたいと思っていますが、もし二人に会えるのならば、少なくとも洗ったものに着替えて、風呂には入ってもらいたいとは思います。こんな事を希望するのは『失礼』かも知れませんが。

 私は、このブログのプロフィール もう少し詳しくでも、書いていますが、仙人になりたい願望は、そんな人に魅力を感じているからです。そんな人に一歩でも近づきたいと思っています。
 仙人と言っても身綺麗な仙人ですが。 

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.

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