論語を読んで見よう
【述而篇7-34】
[第四十三講 諸神と天]

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 神代の昔からと言う言葉があります。思想や宗教、哲学も含めて、人間は自分自身の思考の中で、物事を知りたがり、完結したいのだと思います。
 
 哲学的思考で有名なのは、「アキレスと亀」の話です。有名なので知っている人は多いと思いますが、念のため少し説明を加えます。

 アキレスとは、アキレス腱でお馴染みの、ギリシャ神話に登場する英雄です。彼が足が速かったか、カメより遅かったか、私には分かりません。ですから、昨年(2017年9月)に100m、9.98秒の日本新記録を樹立した、桐生祥秀よしひで選手と四天王寺のカメとの競争を想像する事にします。

 当然、ハンデがなければ、出発した時点で桐生選手の勝ちです。しかし、50m先にカメがいて、同時にスタートしたとしたらどうでしょう。普通に考えれば、全く問題なく桐生選手が勝つでしょう。

 ところが、これを、次のように考えた時、「 ?」と思うのではないでしょうか。下の絵の帽子をかぶった人が桐生選手です。カメは四天王寺のカメとしましょう。

 どう言う事かと言いますと、A地点に桐生選手が付いた時には、カメはB地点にいます。そして、B地点に到着した時には、すでにカメはC地点にいます。この状態は永遠に繰り返されて、桐生選手は、いつまで経ってもカメには追い付けないと言う理論です。古代ギリシアの哲学者ゼノンによって唱えられたものですが、これは、ある思い込みを論破する為に作ったパラドックスです。
 パラドックスと言うのは、「一見正しいように見えて正しいとは認められない説」の事や矛盾、あるいは逆説の事を言います。

 全く『論語』と接点のないような話をしましたが、「天」や「神」「仏」、あるいは「鬼神」に祈る事への孔子の考え方は、ある意味、「アキレスと亀」のように、一見正しく見える事が、実は違うと言いたいのだと思っています。

 さて、以上のような知識を得たうえで、『論語』を読んで見たいと思います。
●白文
『子疾病、子路請祷、子曰、有諸、子路対曰、有之、誄曰、祷爾于上下神祇、子曰、丘之祷久矣』。
●読み下し文>
やまいへいなり。子路しろいのらんとを請う。子のたまわく、これ有りや。子路こたえていわく、これ有り、るいいわく、なんじ上下しょうか神祇しんぎに祷ると。子のたまわく、きゅうの祷ること久し』。【述而篇7-34】
(但し、祷は〔示壽〕を省略しました。)

 現代文にしてみます。
「孔子の病気が重い。子路が病気回復のお祈りをしたいと言った。孔子は。先例があるのか。子路がそれに答えて。有ります。るいに、汝を天地の神に祈る、という言葉があります。孔子は、私は祈って久しい。」

 この文章には、るいと言う言葉が出てきます。「るい」とは、「故人の生前の功業をたたえる言葉」(出典:大辞林第三版 三省堂.)とあります。『現代人の論語』にも、「亡き人を偲ぶしのびごとの辞に」とあります。

 どうも、この「るい」に引っかかっているのですが、『現代人の論語』以外でもこの部分には、触れていません。なぜでしょうか。
 私は、生きている人の前で、「亡き人を偲ぶしのびごとの辞に」や「故人の生前の功業をたたえる言葉」として「るい」と言う言葉が使われたとしたら、そういう時代なのかとも思ってしまいます。

 もしも、「るい」と言う言葉の意味が、故人に対しての言葉であれば、たとえ、「るい」と言う書物か書き付けがあったとしても、「るい」と言う言葉は、禁句でしょう。
 例えば、受験生の前で、「すべる」とか「落ちる」と言う言葉に気を付けるとか、結婚式では「別れる」とか「切れる」と言う言葉を使わないのと同様です。
 であれば、「るい」と言う言葉には、故人や亡くなる事を連想するような意味はなく、ただ祈祷するような、意味しかなかったと、勝手な解釈をします。

 さて、『丘之祷久矣』ですが、「丘」は、孔子の名前です。私は既にずっと前から祈っている。と言っていますが、これは、病気の為に祈っているのではないと、思います。
 ようするに、宮本武蔵の独行道にある「佛神八貴し佛神越太のま須」『仏神は貴し仏神を頼まず』と同じような、神に対する気持ちであったと思います。
 雍也篇6-20『樊遅問知。子曰。務民之義。敬鬼神而遠之。可謂知矣。問仁。曰。仁者先難而後獲。可謂仁矣』の中に『敬鬼神而遠之』とあります。意味は、まさしく「独行道」に類似しています。「鬼神きしんけいしてこれとおざく。」、この鬼神こそ、孔子が言う「天」であり「人の目に見えず、超人的な力をもつ存在。」いわゆる「神」であると推測します。

 いまでも、「神」の存在を信じる人は多く、科学者でも一流であればあるほど、探求しても解決しない事柄に対して、何らかの存在を考える人がいる事も事実です。

 孔子か儒教か、『論語』かは分かりませんが、合理主義であるとか、現実主義という論評がありますが、主義と決めつける必要はないと、考えています。
 
 個人的な考えだとは思いますが、『敬鬼神而遠之』「佛神八貴し佛神越太のま須」のように思っています。私の場合には、孔子や宮本武蔵のように、敬ったり、貴しと思う事もありません。『神や仏』に礼儀を尽くすのは、私にとっては単なる習慣です。不謹慎と思う人もいると思いますが、私にとって、「分らないものは、分らない」のです。ですから、会津藩の什の掟、「ならぬことはならぬものです」と同様、考えても分からないものを、考えないようにしています。もちろん、こんな風に考えるようになるには、随分年月を要したのです。どちらかと言うと、理屈ぽく、夜も眠れず考え込む性分でしたから。

 「神も仏もあるものか」とも思っていません。現実を考えた時、人知を超えた現実に直面することも、度々あります。しかし、それを「天」や「神・仏」には、思わないという事です。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.

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