文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【43】

スポンサーリンク

 今日の一文字は『病』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第四十二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 智慧
スポンサーリンク

【台風】

 台風21号が接近しています。25年ぶりの強い台風と言う事で、進路にあたると予想される範囲が大きく、中心は紀伊半島から奈良県を抜けて福井県か石川県あたりが示されていますが、どちらに向かうかはまだ分かりません。範囲は九州から関東まで広範囲ですから、毎日の予報に注意する必要がありそうです。

【組織改革】

 スポーツ界は、組織について考える必要がある時期に来ていると思います。プロと言われる人の組織と、アマチュアと呼ばれる組織では、成り立ちが全く違うのですが、現在のような経済が優先する世の中では、アマチュアなのかプロ養成機関なのか、混とんとしています。

 アマチュアらしくとは言いません。なぜなら、時代と共にその意識は変わるので、良いか悪いかではなく、どうする事が、選手、コーチ、役員などの考えをまとめていけるかが、組織ではないかと思います。

 随分前になりますが、ある大物歌手とプロダクションの確執で、大物歌手が独立した時に、私は才能を優先する立場でした。

 才能を優先すると言うのは、その才能があるから、その才能を売り込む機会が出来たと思っていました。

 しかし、以前マネージャーのような仕事をしていた人と、意見の食い違いがあり、激論した記憶があります。

 その人は、会社があって、一人の才能が世の中に認められる。と言う主張です。

 私は、才能があるから、それに群がる、金儲けをしようとする人たちが、生計を立てる事が出来ると、真っ向から反対の意見です。

 よく考えると、これは卵が先か鶏が先かの議論と、同じである事に気付きました。

 最近、よくコメンテーターなどの意見を聞きますと、組織がそのスポーツをしてきた OB・OGによって構成されているから弊害がでている。先輩後輩の間で意見が通る訳がないと。

 アマチュアと言うものが、団結して組織を作った初期の段階では、選手が活躍できる場を提供する事が一番の目的でした。ですから、選手経験者が組織を構成しないと、事情が分からないと言う事がありました。

 それが、いつの間にか、組織運営、ひいては組織の経営にまで変化してきているのです。その時代に合わせた、組織の在り方を議論できる、良い機会が出来たのではないでしょうか。

 組織最優先、役員ファースト、選手ファーストも行き過ぎると、その組織の崩壊を招きます。なんでもかんでも、ファーストを付ければ良いとは思えません。あくまでも、その立場の人たちの価値観の違いからくる事ですから、まず、価値観を共有する事に知恵を絞ればどうでしょう。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第四十二段 〔原文〕

 唐橋の中將といふ人の子に、行雅僧都とて、教相の人の師する僧ありけり。のあがる病ありて、年のやうやうたくるほどに、鼻の中ふたがりて、息も出でがたかりければ、さまざまにつくろひけれど、煩はしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うち覆ひければ、物も見えず、二の舞の面の樣に見えけるが、たゞ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額の程鼻になりなどして、後は坊の内の人にも見えず籠り居て、年久しくありて、猶煩はしくなりて死ににけり。

 かゝる病もある事にこそありけれ。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『 唐橋の中将と言う人の子供で、行雅ぎょうがと言う、僧都そうずという地位で、僧侶を教える先生がいた。
 上気する持病があり、歳を重ねるにつれて、鼻の穴が塞がり、呼吸する事も困難で、色々治療をしたが益々悪くなり、目・眉・額も、顔を覆うほど腫れあがり、物を見る事も出来ず、二の舞の面の様になり、ただ恐ろしい鬼のようになって、目は頭の上に上がり、鼻が額にあるかのようになってしまった。
 後は同じ坊内の人にも会わずに、引き籠ってしまった。しばらく経ってさらに悪化して亡くなった。

 こんな病気もあるのだなあ。』

 

『病』

 どういう病気なのでしょう。どんな様相になるのでしょうか。

 二の舞の面とは、舞楽の舞の一つで、異様な面をつけて舞うようですが、インターネット上で見る事ができますので参考にしてください。このブログには著作権の関係で載せる事は出来ません。Googleで「二の舞の面」と検索し、画像をチェツクすると見る事が出来ました。

 この面を見て想像するに、瞼が膨れ上がり、異様と言えば異様ですが、この面の印象は、どちらかと言うと滑稽なデフォルメに見えます。これは、感じ方ですから、気持ち悪がったり、恐ろしいと感じる人もいたでしょう。

 確かに思いもかけない病気は、今でもあると思います。もしそういう病気になったら、私も引き籠るでしょう。すでに、引き籠り状態ですが。

 前回も、徒然草の内容についての真意を疑いましたが、ここでも、兼好が言いたい事とは違うかも知れませんが、病気の内容についてあれこれ考えないようにしました。

 この徒然草、第42段を読んでも、「それで?」位の感想しか出ませんでした。

〔邪推〕

 それでは余りにも、木で鼻をくくったような言い方なので、すこし、違った観点から、この文章を見て見る事にします。

 私が目を付けたのは、僧都そうずとて、教相の人の師する僧ありけり。」の部分です。

 まず、僧都そうずですが、僧と尼を管理する官職の中で、上から二番目の偉い人だそうです。これも、大辞林第三版の受け売りです。しかも、「教相の人の師」とありますから、現在で言う仏教学者と思えます。仏教学者であり、組織の上層部の役員です。

 しつこいようですが、勝手な読み方ですよ。

 まさかね、と思いながら邪推をしてしまう、自分がちょっと嫌になるのですが、下衆の勘繰りとでも言うのでしょう。

 「で、何が言いたい !?」と聞こえてきそうなので、思い切って、自分が思った事を書きます。

 兼好は、この行雅ぎょうがと言う人の事を良く思っていないと思いました。で、この病気も、罰が当たったと言う風に捉えています。ですから実際に病気になったかどうかは不明ですし、行雅ぎょうがと言う人の消息も不明です。

 その理由は、組織の役員に対しての反発か、それとも仏教と言うのは、学者になる事ではない。頭でっかちになっても仕方がないとでも言いたかったと思ったのです。

 そんな事をしていては、仏教の道から外れて、罰があたるぞ、と言っているような気がします。

 現在でもそうですが、組織運営では、一見名誉のあるように見えるのが、役員と言う組織の役割です。

 組織は、良いのか悪いのか、判断は難しいのですが、上意下達が一般的な運営方法です。ですからその中に、上司・部下と言う、上の者に従う従属関係ができます。

 すると、上の者は偉くなった気持ちになってしまいます。確かに上の者になる過程では、下の者より努力もするでしょうし、それなりの知識や技術もあって、上の位になります。ですから、その更に上の人から認められる事もあり、その役職に就く事になります。

 ここまでで、罰の当たるような事はありません。

 しかし、永い間役職に就いていると、組織のよどみが見えなくなってしまうのでしょう。決して良い状況にはなりません。

 最近のスポーツ界だけではなく、官僚の世界でも、国会議員や地方議員に至るまで、役職と権力の在り方が問われています。

 役職がそうさせてしまうのか、もともと素地があったのかは分かりませんが、理想のはき違えが起こるのでしょう。

 さっさと後進に道を譲れば良いと思います。あくまでも役職は、縁の下の力持ちであるべきだと思います。

 そんな兼好の気持ちを表したかったのではと、勝手な思いをしました。

〔ハンセン病〕

 ところで、もしこれが兼好が実際に見聞きした病だとしたら、どんな病気が想像できるでしょう。

 私がこの文章を読んだ時に、初めに思ったのは、実は病気の事です。昔は癩病らいびょうと言いましたが、ハンセン病が思い起こされました。

 私がこの病気を知ったのは、「十戒」という映画の中です。1958年に日本でも公開されました。家族で観に行ったのですが、大阪の梅田の映画館でした。何階建てのビルか忘れましたが、ビルにいる人に、父が「十戒」は何階ですか、と尋ねました。確か8階と答えてくれたと思います。

 家族そろって、大笑いした記憶が鮮明に残っています。当時「十戒じっかい」を「じゅっかい」と思っていました。このブログを書くために確認した時、初めて「じっかい」と読む事が分かりました。
 その映画は上映時間が220分、約4時間でした。もう終わった時にはお尻が痛くて。と言うのも思い出の一つです。

 話が横道にそれましたが、この「十戒」の中で「死の谷」に行く場面がありました。もう60年以上も前の、私の記憶ですから正しいかどうかは、分かりませんが、ドンゴロスのような布で全身を覆った人が、その洞窟のようなところで生活していた事が頭に残っています。

 そして、親から癩病らいびょうと言う名前を聞かされ、不治の病であると教えられました。それは悲惨な病気で、目が落ち、耳が無くなり、鼻が取れると言うような事を聞いて、恐ろしい病気だと思っていました。

 最近まで、ハンセン病は感染力の強い病気であると思っていました。私などが聞く話は、それこそ、おどろおどろしい話ばかりでした。いわゆる偏見の目で見ていたのだと思います。

 最近「あん」と言う映画をテレビで見る機会がありました。樹木希林さんが主役の映画です。

 内容を紹介するブログではないので、割愛しますが、日本でも隔離されていた時代がある病気ですから、患者を終身強制隔離して絶滅させようという政策が明治時代から始まり、この平成の時代に入って、平成8年の3月にようやくその法律が廃止された病気です。

 ですからこの映画にも隔離する施設が映されます。樹木希林さんが演ずるおばあさんの手が不自由で見た目も見苦しく、本人も気にしているのですが、このおばあさんの作る「あんこ」が実に美味しいのです。

 人気が出てお店も繁盛するのですが、ハンセン病であった事が伝わり、それまで賑わっていたお客も遠退いて行きます。

 お客さんのハンセン病に対する知識がない事もありますが、平成の時代にあっても、その理解が国民に知れ渡っていないのですから、仕方がなかったかも知れません。そして、今でも、このハンセン病の事を、理解できていないのが現状だと思っています。

 理解と言っても、感染力は低いと言われていますが、その実態が明確でない以上、不安が払拭できたわけではありません。やはり出来れば接触したくない気持ちも分かります。感染した結果が見えているだけに、これを差別と言ってしまうのも酷な気がします。

 できれば、一日も早い原因の究明と、根治療法の開発を願いたいものです。

 日本書紀にも、白癩びゃくらいの病で、腕のいい庭師の話も出てきますから、兼好も日本書紀を読む機会があったと思いますので、この病を知らなかったと思えません。ちなみに、白癩びゃくらい癩病らいびょうとハンセン病は同じ病気です。

 もしも、「かゝる病もある事にこそありけれ。」の意味が、このような病気があることこそ悪いのだ。とか、このような病気がなければ良いのに。とか、このような病気がある事こそ問題である。と言うのであれば、兼好の嘆きに聞こえるのですが、さらっと、言っているのが気になります。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です