文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【124】

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 今日の文字は『不用ふよう』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百二十三段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 不用

 
★『「日本が外国人に汚染される」日本一多国籍な街・新宿で育った中国人の意外な一言』
(森 健 2018/11/21 07:00)

「いま大久保や百人町の学校は、外国人の子が半数なんですよ──。

 そんな話を聞いたのは数年前の春のこと。その時点ではすぐに取材に取りかかれず、時間が過ぎた。
——中略—–
「日本に長く暮らしていると、日本のよさはすごくわかる。落ち着き、おもてなし、慎み深さ。私は子どもの時から日本に来て、そういう部分を自然と教わりました。これはいま中国に行っても習得できないことです。だから、この先、外国人が一気に多くなると、そういう日本のよさが伝わらないのではないか。むしろ彼らの文化に侵食されてしまうんじゃないか。そう心配してしまうんです」

 この取材を通じて、さらに驚かされたのは、そんな日本に親和感を抱いている大久保の外国人の子どもは少なくなかったことだった。

—–後略—–
(森 健/文藝春秋 2018年12月号)」

 新宿の百人町は、私が東京にいた頃、30年前でも同じような事が言われていました。まるで、日本の中の外国でした。

 気になるのは、「日本に親和感を抱いている大久保の外国人の子どもは少なくなかった」と言う事です。

 日本が鎖国を解いたのが、1854年の日米和親条約締結によってですから、すでに164年もの歳月が過ぎています。

 当然と言えば当然なんですが、今回の日産の問題にしても、フランスから見ると、なぜゴーン氏が逮捕されるか解っていないようです。

 また、以前から中国の富裕層が日本の土地を随分購入していると聞きます。

 今回また、外国人労働者を大量に迎えるようですし、国際化が増々進むのでしょう。

 一見日本人の考え方はフェアに映りますが、外国は一定の自国への防御態勢は取っていると思えます。日本は余りにも無防備過ぎるように感じています。

 竹田恒泰(明治天皇の玄孫やしゃご、法学者)さんが、先日「テレビ番組の【そこまで言って委員会】で、『この「経済を維持するならば」と言うのが大切で、そこから議論すべき。』との発言がありました。その意図は、経済を縮小しても日本を残すのか、それとも外国人を入れて経済を優先するのか、国民の議論があってしかるべき。と言う話を前にもこのブログで取り上げましたが、気が付いたら日本は経済大国でありながら、この地球上から無くなっているかもしれないと、思いました。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百二十三段 〔原文〕

 無益の事をなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人ともいふべし。國の爲、君の爲に、止む事を得ずしてなすべき事多し。その餘りの暇、いくばくならず思ふべし。人の身に止む事を得ずして營む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢ゑず、寒からず、風雨に冒されずして、しづかにすぐすを樂しみとす。但し人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁へ忍び難し。醫療を忘るべからず。藥を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、缺けざるを富めりとす。この四つの外を求め營むを、驕とす。四つの事儉約ならば、誰の人か足らずとせん。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『 無益な事をして時を過ごす事を、愚かな人とも、過ちを犯す人とも言うべきだ。

 国の為、主君の為にやむを得ずしなければならない事は多い。その余った時間はいくらもないと思うべきである。

 人がやむなくする事は、第一に食べ物、第二に着るもの、第三に居る所である。人間の大事はこの三つの他はない。

 飢えず、寒さを凌げ、雨風に晒されず、静かに過ごす事を楽しみとする。
 但し、人は皆病気になる。病になるとその嘆きは耐え難い。医療を忘れてはならない。

 これに薬を加え、四つの事を求めても得られない事を貧しいという。この四つの事が欠けなければ富めるとする。この四つ以外を求めて働く事を奢りとする。この四つの事が質素であれば、誰も足りないとは言わない。』

 

 

『不用』

 私は、無益な事をして過ごす人を、馬鹿とも犯罪者とも思いません。私は、哀れと思います。

 いつもこのブログに書いていますが、人間は『足るを知る』事で、どれだけ幸せになる事が出来る事か。

 ものは、考えよう、仕方によって、全く違う世界を見る事ができると思います。

 この段に書かれてあるように、衣食住と薬があれば富める、と書かれてありますが、それにも節度があります。『飢ゑず、寒からず、風雨に冒されずして、しづかにすぐすを樂しみとす。』ここに書かれてあるように、衣食住にしても、人それぞれに満たされる度合いが違うと思います。

 飢えないと言っても、ある人は、丼鉢に山盛り3杯食べないと、空腹が満たされない人もいるでしょうし、私のように小さいお茶碗に八分目程入れて1杯食べれば事足りる人もいます。

 食事の回数も、一日2回の人も、5回の人もいるかと思えば、1回で済ませる人もいます。

 着る物も薄着で平気な人も、厚着をしないと直ぐに風邪をひいてしまう人もいると思います。

 住まいにしても、ワンルームで十分な人も豪邸でも不満な人もいます。

 私が『足るを知る』と言うのは、人と比較しないで、現状に満足する事です。
 
 人と比べないと、いわゆる不平や不満、前にこのブログで紹介した『ラストチャンス 再生請負人』の中で言われていた「人生七味唐辛子」から逃れる事ができます。

 ちなみに、『うらみ、つらみ、ねたみ、そねみ、いやみ、ひがみ、やっかみ』の事を七味唐辛子と言っていました。

 『人間の大事、この三つには過ぎず。』と書かれていますが、確かに『衣食足りて礼節を知る』事は、何度も経験していますから、無い袖は振れない事も知っていますし、歯がゆい思いをした事もありました。

 しかし、人は限られた時間、この世の中に存在します。色々な遺訓を残して人生は語られています。それぞれに自分の人生に役立つ事も残してくれています。

 中でも徳川家康の遺訓は、天下を取った人だけに含蓄のある言葉です。何度か、このブログにも引用しました。

 『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。』

 私は、この遺訓から「足るを知る」事と同じと思いました。現状に甘んずるのではなく、現状に満足する事が、「足るを知る」事になると思います。

 また、このブログで坐禅儀の一節も紹介しました。

 『前略——其の飲食(おんじき)を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣(ほしいまま)にせず—–後略』

 このいい加減さは、私にピッタリです。

 人は好むと好まざるに関わらず、煩悩という得体の知れない物の虜になって成長していきます。

 解脱をして悟りを開くのは並大抵の事ではありません。そして、なにより運が後押ししてくれなければ、一生修行から脱する事も出来ません。

 そして、悟った瞬間に元に戻ってしまう事でしょう。私は、悟りとはそんなもんだと思っています。

 ですから、人生で兼好法師が言うように、衣食住そして薬、以外の物は不用とは思いません。それぞれに「足るを知る」事で、幸せになると思います。

 先に、人は限られた時間、この世の中に存在します。と書きましたが、その限られた時間、如何に幸せな時間を過ごすかが生きている証ではないでしょうか。

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