文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【168】

 今日の文字は『欠点けってん』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百六十七段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 欠点

 

☆自家製ラーメンレシピ公開 
 
 私が時々昼ご飯に作っているラーメンです。一人分です。

  1. ラーメンの椀に1杯分より少し多めの水を入れ、鍋に移し沸かします。
  2. まだ水の時に、創味シャンタン小さじ1杯と、ガラスープ(youki)を大さじ一杯を入れます。
  3. ラーメンの麺は、少し値段が高い物がお勧めです。1束100円程度。
  4. 具はゆで卵とネギ、あれば、しなちく(メンマ)、味付け海苔2枚ほど。
  5. 麺は茹で上がったら、ざるでお湯を切り、ラーメン碗に入れます。

 このラーメンは、スープに濃口醤油を大さじ一杯入れると、醤油ラーメン、味噌を大さじ一杯入れると、味噌ラーメン、そして、牛乳を大さじ2杯入れると豚骨ラーメン風になります。そのままだと、塩ラーメンです。

 私は、これを担々麺にします。レシピは、また紹介する事にしましょう。これ、おいしいですよ。まるで中華飯店のようです。

 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百六十七段 〔原文〕

 一道に携はる人、あらぬ道のむしろに臨みて、「あはれ、我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覺ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覺えば、「あな羨まし、などか習はざりけん」と言ひてありなん。我が智を取り出でて人に爭ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。

 人としては、善にほこらず、物と爭はざるを徳とす。他に勝る事のあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先祖の譽にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干そこばくとがあり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にも言ひ消たれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。

 一道にも誠に長じぬる人は、みづから明らかにその非を知る故に、志常に滿たずして、つひに物に誇ることなし。

 

 

『現代文』

『一つの道に携わる人が、違う道の場所に臨んで、「しみじみと、自分の携わる道であれば、こんなにひとごとのように解らないまま聞いてはいないのに」と言い、いつもそう思い、くだらないと思う。知らない道の事を羨ましく思うのであれば、「ああ羨ましい。なぜ習わなかったのか」と言えば良い。自分の知識で人と争うのは、角のある物が角を突き出し、牙のある物が牙をむき噛みつくのと同じである。

 人は、善行をしても自慢せず、人と争わない事を徳とする。他の人に勝るものがあるのは、大きな欠点である。品の高さ、才能と技芸に優れていても、また先祖が誉れ高くても、人より勝っていると思う人は、たとえ言葉に出さなくても、心に僅かの罪がある。謹んでこれを忘れなければならない。間抜けにも見えて、人にも隠した方が良い。禍を招くのは、ただこの慢心である。

 本当に一つの道に精通している人は、自分の至らなささを知っている、そして、志は常に満たされないので、最後まで自慢する事はない。』

 

 

『欠点』

 おもしろい。実におもしろい捉え方と思います。なるほど、とも思います。

 実に視点がユニークです。こうありたいと思います。

 いつものように、引用の文章には疑問符が付きますが、私が感心したのは、『他に勝る事のあるは、大きなる失なり。』、すなわち、現代文にすると「他の人に勝るものがあるのは、大きな欠点である。」と断言している所です。

 人としては、善にほこらず、物と爭はざるを徳とす。』と言う部分については、私も同感です。しかし、私は徳とは思いません。ただ、人間としての生き方として、善行をする事は当然であり、悪行は人間として悖る行為であると思うからです。善行を善行として認識するから自慢と思うので、当然と思えば、ことさらこれを自慢する事もないでしょう。

 私は、常々争うと言う事を良しとしていません。争うと言う言葉に語弊があるのでしたら、諍いと言い直しましょう。ただ、争う、競うと言う事から逸脱してしまう原因があると言う事で、「争わない空手道」を推奨しています。

 しかし、これも特別に「徳」とは思っていません。人類と言う枠で考えた場合、同類で争う事のバカバカしさは、歴史を見ても明らかです。ようするに、「徳」ではなく、人類にとって必要な事が、争わない事になると思って言います。

 私は、次の一節に非常に感銘を受けました。

 『品の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先祖の譽にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干そこばくとがあり。』
 
 この部分です。

 面白い発想と思いませんか、たとえ表面に出ていなくても、言葉にしなくても、『内心に若干そこばくとがあり。』とあります。『天知る、地知る、我知る、人知る』と中国の楊震が言った言葉通り、幾ら隠しても自分の中にその罪があると言うのです。 『罪』とまで言い放った言葉には重さがあります。

 私達人間は、好むと好まざるとに関わらず、親の血を引き継ぎます、そして、その親もまた同じです。先祖のDNAを引き継いで自分を形成しています。

 ですから、『品の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先祖の譽にても』のいずれにしても、自分だけの努力の結果ではありません。その事に気付けば、決して吹聴して自慢できるものではないのです。

 また、たとえ『品』良く振舞えたとしても、大部分は育てられ方にあったと思われます。才能技能も、持って生まれた資質が大きな要因になります。決して自分だけのものではないと思います。

 たとえ、後天的な才能があったとしても、それは隔世遺伝かも知れません。また、自分を取り巻く環境が後押ししてくれたのかも知れません。

 『お陰様』と言う言葉、なるほどと思った事がありました。陰に隠れていて自分ではその存在を知る事もない、人や物から影響や恩を受けて我々は生活していると言う事に気付いた事がありました。

 これをとがとは思いませんが、もしこれが人より優れたものだったとしても、自慢できる事にはなりません。感謝すべき事だと思います。

 ここでは、若干そこばくとがあり。謹みてこれを忘るべし。』とありますが、そこまでしなくても、活かす方法を考えるべきではないでしょうか。

 もちろん、ここで言われているように、『禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。』と、折角先祖から受け継いだ資質に慢心してしまっては、それこそ禍をもたらす元凶になると思います。

 ですから、素直に喜び謙虚にこれを活かせれば、人の役にも立つ存在になれると思います。