論語を読んで見よう
【子路篇13-21】
[第十七講 狂者と中庸]

 何人の知人友人と、遊び、勉強し、稽古し、酒を飲み、議論した事か、時には徹夜で話し合った事もありました。

 私の場合は、お世話になった人達のお陰で、今生きているように思います。常はさほど思わないのですが、こうして思い出す機会があると、迷惑を掛けたり、世話になった事しか思い出す事ができません。相当、相手にとっては、迷惑な奴だったのかも知れません。

 出会いと言うのは不思議なもので、自分から選んで友達や知人が出来た事は、まずありません。偶然と言うのか、なりゆきと言うのか、自然にと言うのか、知らない間に気が合い、知らない間に、「振り返れば奴がいる」、とこれはドラマですね。「気が付けば奴がいる」でしょうか。

 歳を経ると、そんな友達も数少なくなりました。いつの間にか疎遠になってしまった人もいます。幸せに余生を送っている事を願っています。みんな、そんな歳ですから。

 今回はそんな友達について、孔子の考えを知ることができるでしょう。
●白文

『子曰、不得中行而与之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不為』。
●読み下し文
『子曰く、中行ちゅうこうを得てこれにくみせずんば、必ずや狂狷きょうけんか。狂者は進みて取り、狷者はさざるところあり
』。【子路篇13-21】

 ここでも、分らない言葉を調べて見ましょう。
 中行とは、『現代人の論語』によると中庸と同義語となっています。
 狂狷とは、いちずに理想に走り、自分の意思をまげないこと。(出典:デジタル大辞泉 小学館.)とありますが、歴史上の人物、荻生徂徠(1666~1728)、
穂積重遠しげとお(1883~1951)、下村湖人(1884~1955)が意訳をしています。これらを参考にしながら、意訳を試みて見る事にします。これらの人はいわゆる知識人ですから、色々な書物を参考にして書かれたものと思います。それでも、私には良く理解する事ができませんでした。

 私は、もう少しシンプルに感覚を頼りに現代文にしてみました。

 『徳や礼の備わった人と知り合いになりたいが、なかなかそういう人は見つからない。それでも、もし知り合いになるなら、未だ徳や礼を備えていないが、可能性のある人と仲良くする』と意訳してみました。
 多分に自分自身の主観が勝った意訳ではありますが、狂狷』と言う言葉の真意を知るには、余りにも浅学であるための結果であると思います。如何でしょうか。

 もちろん、『狂狷』と言う言葉を挙げていますから、可能性があってもその方向性を示しているのだと思います。私は、品行方正でなくても、なんでも積極的に取り組み、途轍もなく悪い事はしないが、ちんまりとしていない人の事を、言っているのではないかと、憶測しています。反って、品行方正従順な人が良いとは、言っていないように理解しました。

 孟子や荀子の言う性善説や性悪説よりも、私は十七条憲法の善も悪も兼ね備えているのが人間だと思っています。性善説にしても、性悪説にしても、教育や環境によって「徳や礼」を備え「善行」をするようになる、と言う事だと思うのですが、私は例え備える事ができても、それを維持しないと、直ぐに悪の部分が顔を見せるのが人間だと思っています。

 空手道と同じです、いつも書いていますが、船越義珍師が言われた空手は湯の如し 絶えず熱度を与えざれば 元の水に還る」、良い言葉を残されたと思います。空手の場合は、歳を取るごとに、回復は遅くなりますが、直ぐに元に戻ってしまうのが現実です。常に考え、常に接していなければ、道を歩いている事にはならないと思っています。
 「礼儀」や「マナー」なども、常にチェックしておかないと、身に付けているはずのものが、いつの間にか、忘れてしまうのが人間のさがです。そんなに気負う必要もないとは思いますが、時々は、背筋を伸ばしてみる事も必要かと思っています。

 「朱に交われば赤くなる」のが人間の本質ではないでしょうか。付き合う人を選ぶ必要があります。特に、考え方や思想と言う分野では、低きに流れやすいのが世の中の常でしょう。

 初めに書きましたが、友達や知人は、いつの間にか出来ているものだと思っています。友達を選んだこともありません。

 このブログでは時々書いていますが、人にも物にも魅せられたり、惹きつける何かがあると思っています。頭で考える事だけではなく、違った力が働いているように思います。 【因縁生起】ではないでしょうか。

 しかし、 五輪書【地之巻後書】にも書いてありますが、短い人生の中で、取捨選択も人間の能力だと思います。良い友達や知人と出会える事を祈りましょう。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.