独行道を読む
【王か身尓いたり物い三春る事奈し】

【出典:熊本県立美術館 所蔵品  データベース   独行道】

 今日は、クリスマスイブですね。クリスマスイブと言うと、プレゼント貰えるかも知れません。楽しみにしている人もいると思います。そんな時に、今日の題目は、貰えるものは、何でもOK!と読んでしまいそうですね。

 (1)生き方・(2)住・(3)食・(4)子・(5)衣(持ち物)・(6)武具・(7)財宝・(8)行動についての戒律が書かれてあると言っても良い。その中で、
 王か身尓いたり物い三春る事奈し『我が身にいたり物忌する事なし』は、(5)持ち物を指し、衣食住の衣にあたると思われます。

[王](わ) [尓](に)  [三](み) [春](す) [奈](な)

 衣食住は、生きていくうえで最低限必要なものと言えます。しかし、武蔵は、住まいについては、望まないと言っています。ただ、望まないと言っても、武蔵の人徳により、雨風から身を守ってくれる住まいについては、提供されていたように思います。放浪者(バガボンド)と言っても、浮浪者ではありませんでした。

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『独行道全文』

 

 

獨行道
一 世々の道をそむく事なし
一 身尓たのしみをたくま須
一 よろ爪尓依怙の心奈し
一 身をあさく思世越ふかく思ふ
一 一生の間よく志ん思王須
一 我事尓於ゐて後悔を勢寸
一 善惡尓他を祢多無心奈し
一 いつ連の道尓も王可れを可奈しま寸
一 自他共尓うら三をか古川心奈し
一 連ん本の道思ひ与る古ヽろ奈し
一 物毎尓春起古の無事奈し
一 私宅尓おゐてのそむ心奈し
一 身ひとつ尓美食をこのま須
一 末々代物奈留古き道具所持せ寸
一 王か身尓いたり物い三春る事奈し
一 兵具八各別よの道具多し奈ま寸
一 道尓於ゐて八死をいと王寸思う
一 老身尓財寳所領もちゆる心奈し
一 佛神八貴し佛神越太のま須
一 身越捨ても名利はすて須
一 常尓兵法の道を者奈礼寸
 正保弐年
  五月十二日 新免武藏
          玄信(花押)「二天」(朱文額印)
   寺尾孫之丞殿

 

 ここで、武蔵は、物に対して忌するものではないと、言っています。「忌」するというのは、タブーにするものや偏見の事ですが、言葉としては『忌み嫌う』と言う意味で使っていると思われます。であれば、「自分が持つ物に対して、嫌って避ける事は無い」と言っているのだと思います。

 これまでも、衣食住などに関しての拘りや、好き好む気持ちを戒める条があります。ここでも、その類ではありますが、少し、意味合いが違います。今回の場合は、武蔵にしては、ファジーな考え方ではないでしょうか。

 私の言葉で言いますと、「いい加減」になると思います。武蔵も 「「五輪書」空之巻 序には、『心の直道よりして、世の大がねにあハせて見る時』(原文)と、色眼鏡で見たり、偏見を持つ事を戒めています。

 一見、「いい加減」や「ファジー」と違うと思われますが、「いい加減」と言うのは、屁理屈に聞こえるかも知れませんが、「ちょうど良い加減」の事を言っています。「良い加減」を知るためには、自分の浅知恵で考えるより、智慧に頼らなくてはなりません。拘りを捨てて、俯瞰する気持ちが必要で、その為には、目線を広くする事で、固執から逃れられるのではないでしょうか。

 武蔵が強かったかどうかは、実際には検証できませんし、強いか弱いかと言うのは、私にはどうでもよい事です。『五輪書』を見る限りでは、他の武芸者による兵法書より、具体的で、実戦的であることは、明白です。
 ですから、武蔵は普通の人が、そんなに自分の考えに固執する事がない事柄に対しても、拘りを強く持っていたのかも知れません。

 物事に対しての執着心や、欲心が人より強かったのかも知れないと考えています。執着心に対して、普通の人よりも律する必要があったのかも知れません。私は、そんな風に思ってしまいます。

 出世する人の多くは、人よりも情熱的であると同時に利己的で、今よく言われるサイコパス的な性格の人が多い事は、随分知られるようになりました。

 自分で押さえられない程、ふつふつと湧き上がってくる情熱が、いい方向に向かえば、政治の世界でも、経済の世界でも、武道の世界でも、頂点に達する事ができると思います。芸術家には、特に多いのではないでしょうか。

 武蔵も、押さえきれない程の気持ちを、戒めるため『自誓』したのかも、知れません。

 前回までは、『自誓書』と『遺言』の内、どちらに重きを置いているのかと、思っていましたが、今回の 王か身尓いたり物い三春る事奈しを読んで、熱い思いと自制心の狭間で揺れ動く、武蔵の心を見るような思いに駆られました。

 その自制心を強調するために、第一条に【世々の道をそむく事なし】を入れて、書き始めとしたのかも知れません。

 武蔵は、死を目の前にしても、情熱を絶やす事が無かったと思います。同じ一生を送るのであれば、私もそのような最後を迎えたいと思います。

 それも、武蔵のような燃え滾るような情熱ではなく、船越先生の例へば湯のやうなもので、始終相當の熱度を與へないと、直ぐに冷えて元の水になつて了ふ。』のような相当の熱度、すなわち『適当な』熱を持ち続けたいと思っています。   

 【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.