独行道を読む
【我事尓於ゐて後悔を勢寸】

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【出典:熊本県立美術館 所蔵品  データベース   独行道】

 今日は、『独行道』の中でも有名な言葉の一つ、我事尓於ゐて後悔を勢寸です。

 ちなみに、ここでも 左上[尓](に) 、右上[於](お)、左下[勢](せ)、右下[寸](ず)のように、[ ]内を元の漢字とした変体仮名を使っています。読み方は( )内のように読みます。

  今回は『独行道』を精査しようと、色々なブログや文献をサッと読み漁りました。

 その中で、独特の読み方をされた人がいましたので、紹介します。
 この、『我事において後悔せず』の『我事』を『我、事』と読むのは間違いで、『我事』と読むのが正しいと、ブログにコメントとしています。文章的には、確かに、他の項目には『我』と断っていないのに、ここだけ、『我』と書いてあるのは、確かに不自然だと思いますが、如何でしょうか。

『独行道全文』

 

 

獨行道
一 世々の道をそむく事なし
一 身尓たのしみをたくま須
一 よろ爪尓依怙の心奈し
一 身をあさく思世越ふかく思ふ
一 一生の間よく志ん思王須
一 我事尓於ゐて後悔を勢寸
一 善惡尓他を祢多無心奈し
一 いつ連の道尓も王可れを可奈しま寸
一 自他共尓うら三をか古川心奈し
一 連ん本の道思ひ与る古ヽろ奈し
一 物毎尓春起古の無事奈し
一 私宅尓おゐてのそむ心奈し
一 身ひとつ尓美食をこのま須
一 末々代物奈留古き道具所持せ寸
一 王か身尓いたり物い三春る事奈し
一 兵具八各別よの道具多し奈ま寸
一 道尓於ゐて八死をいと王寸思う
一 老身尓財寳所領もちゆる心奈し
一 佛神八貴し佛神越太のま須
一 身越捨ても名利はすて須
一 常尓兵法の道を者奈礼寸
 正保弐年
  五月十二日 新免武藏
          玄信(花押)「二天」(朱文額印)
   寺尾孫之丞殿

 

 私は、『我事』であっても『我、事』であっても、両方ともにかかっているのではないかと思っています。

 この『独行道』が、あくまで『自誓書』であるとするならば、『我事』も『我、事』であっても、「過ぎ去った事に対して悔悟の念は持たない」と言う事だと思います。

  自分の責任で起こった事に対してだけ、悔しく思わないとか、恨まない、と言うのも腑に落ちないと思っています。

 なぜなら、後悔と言うのは、後悔をすることにって様々な恨みつらみを思い返して悶々とする事や、あまりにも残念に思い、長く引きづってしまう事だと思います。それが、他人が引き起こした事、あるいは、社会に対しての事だとしたら、放って良いかと言うと、それも問題です。変な言い方になりますが、もし『我事・・・』だとしたら、自分の事は、後悔しないが、他人のした事、あるいは社会に対しては、残念にも思うし、恨みつらみを引き摺ります、と言う事になってしまいます。
 それだと、逆に身勝手で非常識な人間になってしまいます。

 後悔をしないと言う事を、どのように考えるのかも、自由だと思いますが、後悔をしないと言う事は、後悔をするような原因があったと言う事です。それが、自分自身の事であっても、他人の事であっても、また社会全体の事でも、その事で心を悩まさないと言う事で、その原因に対して解決策や始末の方法を考えない事ではありません。

 後悔しないと言うのは、原因から逃れるための一つの方策ではないかと思っています。後を振り返ってばかりいて、前に進めない状態から脱する意思の事を、後悔しない、というのだと思います。ですから、身勝手であるとか非常識とは、無関係ではないのでしょうか。少なくとも私は、そう思います。

 さて、他人の書かれた文章に対して、とやかく言っている事に後悔していますが、自分自身の人生では、後悔の連続です。毎日のように、こんな事言わなければ良かった、とか、あんなことしなければ良かった、で人生を経て来たように思っています。

 ただ、それを引きずってばかりいた分けではありません。その原因が元で、考え方を深める事も、変える事も出来ました。

 後悔自体、それほど敬遠するものではないと、思っています。逆に後悔も反省もしない人の方が問題です。もちろん後悔と言うのは、反省のように、良心の呵責や、相手に対して詫びる気持ちが、絶対に必要な要件ではありませんが、それでも、何らかの感情が起こるのは仕方がない事です。

 もっと気楽に、後悔の念も受け入れても良いのではないかと、思っています。頑なに後悔しません。と言っても逆に拘ってしまう事になります。

 ただ、受け入れてからの精神状態が問題だと思います。自分を苛めてしまうまで受け入れない事です。

 私は、後悔する原因があった時は、自分の解決できる範囲で「明らかにする」すなわち、諦観の一歩手前ですが、KJ法などの問題解決の手法を駆使して、原因の究明と共に解決策を探ります。
 それでも、解決できないときに、初めて『仕方がない』と『諦観』します。

 さて、私のように、あがきながら、それでも引き摺らない方法が良いのか、それとも、短い人生、そんな事で悩んではいられないと、『後悔先に立たず』と一蹴してしまう方が良いのか、これは生き方の問題です。

 【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

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