【出典:熊本県立美術館 所蔵品 データベース 独行道】
今回も参考文献を見ても、直ぐには納得できる訳に、出会えませんでした。
【善惡尓他を祢多無心奈し】をどう解釈するべきか、悩む所です。
文章の中に、左の変体仮名が含まれています。前回にも出てきていますが、「尓」(に)「祢」(ね)「多」(た)「無」(む)「奈」(な)と言う漢字が元になっています。「善悪に他をねたむ心なし」と読みます。
問題は、『善悪に』と言う文章をどう解釈するかで、武蔵の言いたい事が、全く変わってしまうので、解釈に迷います。
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また、「善悪に」を省いて「けっして他を妬む心なし」と、意訳しているものもあります。他にも訳したものがあるかも知れませんが、それだけ訳文する事が難しいと考えられます。
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しかし、どの訳文も、「善悪」と「妬む」と言う言葉が、同一線上に並べられると、勉強不足なのか、私には腑に落ちません。
では、私はどのような解釈をしているかを、述べて見ます。「善悪に」に続く言葉の意味から、前の善悪を解釈したいと思います。
まず、妬むと言う事は、「他を」ですから、「他人を妬む」と言う事だと、思われます。もし、これが、「社会を妬む」となると、意味が分からなくなります。「社会」の場合は、「恨む」とか「憎む」の方がピッタリします。しかし、「境遇」の場合だと、人の幸せな境遇を妬む場合もあると思います。
だとすると、「善悪に」と、言う言葉に合わせて見ますと、他人の「善」を幸せと捉えた場合は、妬むことになりますが、他人が「悪」となると、意味が通じません。
色々「善悪」と言う言葉を調べて見ました。昔は「善悪」と言う言葉をどういう意味で使ったのでしょう。
【写真は正義の女神像、司法・裁判の公正さを表す象徴・シンボル】
学研全訳古語辞典(学研)では、
名詞:善と悪。善人と悪人。副詞:よかれあしかれ。いずれにせよ。
となっています。
では、「いずれにしても、他を妬む心なし」と言い換えても良いのではないでしょうか。そうすると、「どんな場合でも、他を妬む心なし」と言う事も出来ます。
理屈を捏ねて、強引に答えを引き出したように見えますが、何となく意味は通じます。それでも、納得できるものではありません。
そこで、もう一度、「善悪」にスポットを当てて見ました。「善悪」と言う熟語として、この言葉を扱ってきましたが、「善」と「悪」では、どうでしょうか。
同じ学研全訳古語辞典(学研)では、
【善】名詞:(1)道理や道徳にかなったこと。善行。(2)好ましいこと。すぐれていること。
【悪】名詞:道徳・正義・良心などにそむくこと。悪いこと。
名詞の場合は、「善悪」を熟語と考えた場合と意味は変わりません。
しかし、接頭語と考えた場合は、
接頭語:人名などに付いて荒々しくたけだけしいの意を表す。賞賛の気持ちでいう。
とあります。例えば【悪僧】というと、武芸を得意とする勇猛な僧。荒法師。になります。この場合「悪」の意味は、勇猛な、荒々しい、となります。
そこで、「善」も接頭語として、「善人」、「悪」も上記の「悪人」とした場合は、「優れた人」、「勇猛な人」と考える事ができます。
そうすると、「自分よりも優れた人、あるいは、勇猛果敢な人の才能に、妬む事はない」と意訳できますが、如何でしょうか。
何となく、武蔵らしい言葉として、私は腑に落ちました。
しかし、武蔵ほどの才能があれば、他を妬む必要も無かったのでは、ないでしょうか。
(左の枯木鳴鵙図は重要文化財に指定されている宮本武蔵の作)
私は、「人は人、自分は自分」も、「足るを知る」事も、同じように『諦観』であると思っています。
そう言えば、母がよく「上見たらキリが無い、下見てもキリが無い」と言っていました。自分の居場所をしっかり解っていたのでしょうね。
【参考文献】
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
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