独行道を読む
【私宅尓おゐてのそむ心奈し】

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【出典:熊本県立美術館 所蔵品  データベース   独行道】

[尓](に) [奈](な)

 【私宅尓おゐてのそむ心奈し】『私宅において望む心なし』と読みます。
 言葉としては、難しくないと思います。久しぶりにすんなり頭に入ります。
 前回の『物毎尓春起古の無事奈し』で言いましたが、『好き好む』や、今回の『望む』と言う意味合いで書かれてある事に、違和感を感じますが、逆に人間武蔵を浮かび上がらせているように思います。

 武蔵は、どんな人生を送って、そんな気持ちになったのでしょう。

★下のバーをクリックすると『独行道』全文が見えます!

『独行道全文』

 

 

獨行道
一 世々の道をそむく事なし
一 身尓たのしみをたくま須
一 よろ爪尓依怙の心奈し
一 身をあさく思世越ふかく思ふ
一 一生の間よく志ん思王須
一 我事尓於ゐて後悔を勢寸
一 善惡尓他を祢多無心奈し
一 いつ連の道尓も王可れを可奈しま寸
一 自他共尓うら三をか古川心奈し
一 連ん本の道思ひ与る古ヽろ奈し
一 物毎尓春起古の無事奈し
一 私宅尓おゐてのそむ心奈し
一 身ひとつ尓美食をこのま須
一 末々代物奈留古き道具所持せ寸
一 王か身尓いたり物い三春る事奈し
一 兵具八各別よの道具多し奈ま寸
一 道尓於ゐて八死をいと王寸思う
一 老身尓財寳所領もちゆる心奈し
一 佛神八貴し佛神越太のま須
一 身越捨ても名利はすて須
一 常尓兵法の道を者奈礼寸
 正保弐年
  五月十二日 新免武藏
          玄信(花押)「二天」(朱文額印)
   寺尾孫之丞殿

 

 武蔵が誕生して、亡くなるまでの足跡は、分かっているようでいて、不明な点ばかりです。ですから、播磨武蔵研究会のような研究会があるのでしょう。

 江戸時代から芝居や読み物に『宮本武蔵』を取り上げ、その度に、色々な武蔵が登場したのでしょう。
 現在では、やはり、その代表が吉川英治の『宮本武蔵』であろうと思います。

 史実を深く研究されている、放送大学教授の魚住孝至氏と言う方がいます。 空手道という武道『求道』の中でも引用させてもらっています。

 現在のところ、史実に一番近いであろうと評判の、宮本武蔵を著作されています。題名は『宮本武蔵—–日本人の道』です。

 今回のテーマである私宅を、武蔵は一生持つ事は無かったと推測できます。

 この事は、ここで言われている『私宅において望む心なし』、のように望んで私宅を持たなかったのかと言うと、私は、少し違うのではないかと思っています。

 武蔵は、放浪の旅を続けています。漫画の『バガボンド』の通り、放浪者ですから、私宅は必要なかったのではないかと、思っています。
 ですから、望む必要も、無かったのでは、ないのでしょうか。

 では、なぜ、この『独行道』に、わざわざ書き添えたのでしょう。私は、どうも意地悪なのでしょうか。本当に望まなかったのか、疑問でなりません。

 私事ですが、いわゆる私宅を、6回替えています。それは、望んでの場合もありますし、仕方なく引越しを余儀なくされた事もあります。自分が思うとか思わないとか、望むとか望まないとか、考える余地は、ほとんど無かったように思います。親からは、根無し草と言われていました。

 私の場合は、転々と住処を替える人生を送ってきましたが、武蔵は、転々とし、居候させてもらえる、境遇にあったのでしょう。これは、家族がいる場合と、独り身の場合で、状況が全く違ってきます。まして、居候させてもらえたり、滞在を喜んでくれる人がいたという事は、武蔵の人徳かも知れません。

 それでも、武蔵は、家庭も私宅も望みながら、頑なに自分に言い聞かせて、そんな気持ちを、寄せ付けなかったのかも知れません。

 ここでも、私は、求道者だからといって、一途に自分で戒律を決めてストイックに道を歩むことが果たして、良いのか迷うところです。
 求道者と言えば、仏陀を思い起こします。仏陀も大変な苦行の末、苦行からは何も得られないと、悟りのために座禅を選んだと聞いています。

 何かを得るためには、失うものは、確かにあると思います。それが、バランスと言うものです。それは、人間が失ったと感じる世界感で、物質不滅の法則のように、プラスマイナスゼロでバランスを取っているのが、科学の世界では自然な出来事です。
 すこし、分かりにくい言い方をしてしまいましたが、何が言いたいかと言いますと、何かを得るために、と言うのを少し幅を広くすれば、失うものも少なくて済みます。要は、一途や頑なな気持ちを少し広げて見る事です。

 また、この言葉が出てきますが、『いい加減』な生き方をしても、そんなに結果は変わらないという事です。もちろんこの『いい加減』と言うのが難しいのですが、弥次郎兵衛みたいなものです。バランスを取りながら、ひっくり返らないように生きていくのが人生では無いのでしょうか。

 自分が正しいと思う事に、必要に拘っても、それが本当に正しいかどうか分かりません。よく、信念に従って、とか、自分の思う事をやり通しなさい。などと言う事を聞きますが、私は、その信念は、客観的に見て、大所高所から見て、正しいかどうかを考えてからでも、遅くないと思います。

 【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

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