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前回、十七条憲法のまとめを投稿します、ご期待下さい。と書きました。昨日何とか投稿できればと、一日かけて書き綴りましたが、もう一度寝て、朝から推敲してみることにしました。
今朝も日課の運動をすませ、イモを食べ、お習字をしてから、ブログに取り掛かっています。
期待に副えたかどうか、とりあえず私なりに、自分が理解しやすくまとめてみました。
これまでと同様、まず、原文を掲載しておきます。下記のバーをクリックすると見る事が出来ます。
目障りになる人は、バーをクリックすると、見えなくなります。
なぜ、聖徳太子が十七条憲法を示したかを考えて見ましょう。
上に立つ者も、下に就く者も仲睦まじく仕事をしないと、事がうまく運ばないからだと思います。
これには理由があります。仕事に限った事ではありません、私が口癖のように言う、人は社会的な動物としてしか、地球上に存在する事が出来ないからだと思います。この社会的な構造が崩れた時に、人は思い思いに自由な行動をとってしまいます。
世の中には、集団を形成しないと生きていけない生物と、固体でしか生きる事ができない生物がいます。人間は前者で、少なくとも、生まれた時から一人では生きていけないように出来ています。
人間社会を維持しようとすると、すくなくとも、人間同士でルールが必要です。でなければ、人は人を襲う事も平気でやります。今も戦争は絶えません。そこには、どうしてもルールが必要です。しかし、ルールを守るのは人間です。
そこで、ルールを守る事ができる人間が必要になってきます。
そのルール以前の人間の良い部分を引き出そうとしたのが、『礼節』であったのではないでしょうか。
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聖徳太子は、人間を「性善説」でも「性悪説」でもなく、良い面も悪い面も持ち合わせていると考えたのではないでしょうか。ですから、第十条に賢愚を備えた輪の端のようなものだと言ったのではないでしょうか。
だからこそ、国を治めるため、『礼節』を弁えた上司と部下を作りたかったのだと思われます。
その為には、嫉妬やわがままな心(私心)を持つ事を止めなさいと戒めています。この嫉妬心や私心が高じると、せっかく良い制度を作っても、これを破り法まで犯す事になると言っています。
また、嘘偽りの心で物事を成そうとすると、結果は悪い事になります。そこに真心があれば善い事になります。物事が成功するか失敗に終わるかも、真心を込めて事にあたるかが大きな要因になります。その真心を以て事に当たる事が、物事にあるいは人に対する『礼節』と言えます。
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ここで言う、真心とは十七条憲法に書かれてある『信』であり、『嘘偽りの無い素直な心』の事を指しています。
しかし、いくら真心と言っても、人それぞれに信じる考えがあると思いますので、意見の違う人に耳を傾ける必要があります。これは、『礼節』の根本であり、人に対する敬意です。
第十条に書かれてある通り、私達は共に凡夫であり、賢愚を備えた存在です。自分の考えに固執してしまっては、正しい判断が出来なくなります。『礼節』を以て相手に接し、相手の意見を聞く耳を持てれば、意見が違っても争いには成らず、議論を重ねられる関係になれます。
もちろん、面従腹背のような考えをもって、心から人に対して信頼感を持てない人は、『節度』の壁を越えていますので、組織を、ひいては国を混乱に陥れるでしょう。これはもう、『礼節』を語る事の出来ない、社会生活を逸脱する考えと言えます。これでは議論ができる関係を築く事ができません。
先述した、たとえ考え方が違っても、腹を割って話し合える環境を作る事ができるのは、お互いに認め合う事ができる『礼節』を基盤としたものでなければなりません。
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また、お互い信頼し合った仲間であったとしても、人それぞれに立場もありその時に置かれた環境もあります。自らの言動にも時・所・場合を考え、相手を思いやる『礼節』が欠かせません。
現在では、TPOと言う便利な言葉あります。これを実行することは、すなわち『礼節』をもって人に接するという事です。
如何に世の中が自由で平等な社会を目指しても、まだまだ現状は、上の者が下の者に対して命令や依頼をしながら、組織は動いています。もちろん、昔のような直訴や目安箱といった制度はなくなり、会議の席で自由に発言する事はできる組織もあるでしょう。しかし、このような場合でも『礼節』のある言動が求められる事は、言うまでもありません。
組織によっては、今でも自由な発言ができる環境にない場合もあります。公益通報者保護法ができて10年以上経過しました。いわゆる、内部告発です。
法律家に言わせると、正当な権利であると主張します。確かに法律ですから、国民に与えられた権利です。しかし、権利には義務が必ずある事を忘れてはなりません。なぜなら、権利と権利がぶつかるからです。
こういう制度を利用する場合も、『礼節』は欠かせないものだと言えます。本当に『私心』がなく、皆が納得できるものなのかを、真心をもって考えなければ、独りよがりの自分勝手な行動になってしまいます。こういう事を熟慮した上の権利の主張は、大いにすればよいと思います。
しかし、この法律も人が幸せになるために、一つの歴史上の試みである事を理解する必要があると思います。この法律が絶対に正しいと判断できるのは、人間ではないのです。
この法律問題でも、十七条憲法は訓戒を示しています。上に立つ者が率先して遂行しなければ、下の者が『礼節』を守る事もせず、ひいては、犯罪を生む土壌となると。
ここで言う上に立つ者には、三権を司る者、いわゆる司法・行政・立法などがありますが、小さな組織から大きな組織まで、その権限を持つ者は、すべて、ここで言う上の者である事を認識すべきでしょう。
私は、今年の初めてのブログで、『武道をしている人は、礼儀が正しいと、考えるのが一般的だと思います。しかし、それは単なる先入観だと思っています。』と書きました。
なぜ、先入観なのかと言いますと、空手道を初め柔道、剣道などと言う武道の習得と、『礼節』に直接的な関係はないからです。
たとえ、礼に始まり礼に終わると習い、お辞儀をして相手や場所に敬意を払っても、それは儀式に終わってしまいます。心から『礼節』を理解し、その心を相手に向ける事ができるようにならないと、聖徳太子の目指した国造りにはならないと思っています。
私がなぜこの十七条憲法を取り上げて『礼節』を事細かに解剖し、解明しようとしているかと言いますと、人は生まれながらに『賢愚』を備えた凡夫であり、その者がひとたび権力を得れば、『礼節』無くして生きていく事が困難になる事を示したかったからです。
十七条憲法では、下の者が礼節を守れば、国はうまく治められるとは、書いていません。上の者が率先して『礼節』を守りなさいと書いてあります。これは、権力者に対する訓戒です。
武道をしている人は、自分が思う以上に、強くなります。それは、明らかに力を持つ事です。言い換えれば、人に対する権力と言えるでしょう。もちろん、私人が私心で武力を行使する事は、法律違反になりますが、人と人の関係では、法律以外の関係が生まれる事は明らかです。
近頃は、法律で守られているからと、言葉の暴力を平気で振るう人も多く見られます。これらの人も、自分は権力を持っていると理解する必要がありそうです。
武道を志す者は、この事に十分留意して、『礼節』を身に付けてほしいものです。