前回まで、聖徳太子の十七条憲法を徹底解剖し、『礼節』を考え、その基本となる考えを知る事が出来たと思います。
前にも書きましたが、 『理解力・咀嚼力・表現力』という経過をたどって、初めて自分のものとなります。
そこで、折角理解できた、と思われる『礼と節』を、外側から身につけて見たいと思います。作法を知る事は、表現力ではありません。あくまでも、稽古の段階ですから、咀嚼して身に付けると言う事です。咀嚼と言うのは、違った知識で補うという事と、実際に身に付ける稽古が必要です。
断っておきますが、咀嚼と言うのは、私が勝手に名前を付けているだけで、反芻でも復習でも稽古でも、呼び方は自由です。私は咀嚼と言う言葉がしっくりするので、使っています。
武道を志す人には、必ず身に付けなければならない事は、前回書きました。戦う事が正義ではない世界では、武道に『礼節』がなければ、ただの暴力であり、粗暴な振る舞いがあれば、法律で罰せられますし、粗野な態度や言動が、自ら住みにくい社会を誘発してしまうことでしょう。
『礼儀』を『節度』ある作法で表現すると、品があります。品と言うと分かりにくいですが、 『松濤五条訓』にある、『人格完成に努めます』の人格のレベルです。品格とも言います。人に対する評価の言葉で、気高さや上品さの事ですが、この言葉も曖昧で、『礼節』のように色々な要素が含まれる言葉です。
『礼節』の表現をする上で、品格と言うのは必要な事なので、作法を挙げた時に説明していく事にします。
まず、どのような礼儀作法を表現する場合でも、上の節度を越えてはなりません。それはもう『礼節』の範疇を越えているからに他なりません。
では、最初は、上の図の動作で考えて見る事にします。
この動作とは人間が生きていれば、何をするにも動き、声を発します。いわゆる、言動というものです。
これは、あらためて作法と言うほどのしきたりが決められている分けでもありません。
ですから、本当は時代に即した常識の筈です。しかし、この常識が一番難しいと思います。時代によって常識は、皆が、いや少なくともその国が共有した考えだったと思います。
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ここでも、「断片化された知識量で人を試す戦後教育の犠牲者なのかも知れません。」【(光延 昴毅)氏(国際開発コンサルタント)】と言う言葉を思い出すのですが、確か1980年代前後だったと思いますが、多様化の時代と共に、常識も解体したように思っています。
自分らしさを強調するあまり、社会全体が共通認識しなければならない事まで、多様化してしまったようです。それは、個性と言うのでしょうか。
ただ、このような常識の崩壊と、新たな常識が現れては消える事で、歴史は繰り返してきたのかも知れません。
今、ちょんまげを結い、着物を着用して歩いているのは、お相撲さんぐらいです。僅かと言えるかどうかは分かりませんが、150年程前は当たり前だったことが、すでに常識ではありません。何も150年前に遡らずとも、10年ひと昔と言いますから、10年も経てば、常識は変わっていくのかも知れません。
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だからと言って、変わらなくても良いものまで、変えていく必要もありません。1500年前に訓戒された聖徳太子の十七条憲法でさえ、十分現在でも通用する事ばかりと思います。『不易流行』と言うではありませんか。
しかし、こればかりは、時代の波に逆らっても流されるだけですから、流れに逆らわないようにしながら、私が個人的に守りたいと思う『礼節』に適った言動を挙げて見たいと思います。
一応ブログと言えども、何の脈絡もなく日記のように書き綴ると、読む人もまとまりが無いと、読みにくいと思いますので、書き綴る目次を示して置きたいと思います。
2. 動作で『礼節』に適う事
3. 持ち物・身に付ける物で『礼節』に適う物
4. 『礼節』として伝えられている作法
一応、上に挙げた順序で、考えていきたいと思います。
ただし、参考文献を頼らずに、私の体験を基に書いて行こうと思いますので、この目次の通りに進められるか、疑問です。
ちょっとした、自慢話をしますが、高校生の時に、高野山で小さな庵を借りてもらい、過ごした事がありました。その時に、庵の住職(佐伯公賢翁)から、如才のない人と、評価してもらった事がありました。今まで、その言葉に恥じないよう生きて来たつもりです。また、その言葉の通り、晩節を汚さないよう生きたいとも思っています。この「如才がない」と言う言葉は、論語に語源があり、「謹みかしこまること」らしいのですが、現在では、「気がきいていて、抜かりがない。」(出典:デジタル大辞泉 小学館.)との事です。
これも、受け取り方ですが、その時の住職が言われた雰囲気から、『若いのに礼儀ただしい』と言われたように思いました。
人は面白いものですね。自分に対していい事は、素直に聞けるし、悪い事に対しては、聞く耳を持てない事が度々あります。しかし、また、良い事でも悪い事でも、聞ける人、聞けない人がいる事も、経験上確かにあります。
できれば、聞ける人がそばに居ると、人生が寄り道ばかりでは無くなるかも知れません。