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人は、言葉を交わす直前に、好きか嫌いかを決めていると、恋愛の仕組みを研究している人がいるようです。その時間は僅か、0.5秒。脳科学者の茂木健一郎氏は0.1秒説を唱えています。
できれば、好き嫌いは無い方が良いのは、食べ物も同じです。食べ物の好き嫌いは、嫌いなものの種類が少ない場合は、食べなければ良いのですが、多い場合は、ちょっと損な人生だと思います。若い間はさほど食べ物に固執する事もないと思いますが、だんだんと、美味しいものを食べた時だけ、幸せ感を味わうようになるようです。嫌いなものがあると、それだけ「うまい」と言う機会が減る分けですから、やっぱり損ですね。
人の場合も、好き嫌いは無い方が、精神衛生上良いと思います。例えば同じ職場に嫌いな人がいる場合は、問題です。しかも、それが上司の場合は、ストレスで健康まで害する事があると思います。
できるだけ、好き嫌いなく人と付き合えれば良いのですが、冒頭に書いたように、0.5秒で意識する前に、脳は、決めてしまうようです。
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そんな相性が孔子の門下にもあるのでしょうか。
●白文
『宰我問曰、仁者雖告之曰井有仁焉、其従之也、子曰、何為其然也、君子可逝也、不可陥也、可欺也、不可罔也』。
●読み下し文
『宰我、問うて曰く、仁者はこれに告げて、井に仁ありと曰うと雖も、其れこれに従わんや。子曰く、なんすれぞ其れ然らん。君子は逝かしむべきも、陥るべからざるなり。欺くべきも、罔うべからざるなり』。【雍也篇6-26】
まずは、現代文の意訳をしてみます。と、訳を試みましたが、スッキリしません。この文章も色々な方が、色々違う訳し方をしています。内容はそれほどの差はありませんので、要約をします。
『宰我が尋ねた。「もし人が井戸の中に落ちていると、告げられたら、その言葉に従いますか」。孔子は、『井戸の中を確認するが、即座に飛び込んだりしない。騙して井戸の傍までは連れてこれるが、中を確認しないで飛び込むような愚を犯す事はない』
この宰我と言う人は、孔子の弟子であっても、どうも相性が悪かったかも知れません。『グラフィック版論語』には「姓は宰、名は予。字は子我。孔子の弟子のなかで、かれほど孔子と対立する考えをもっていた人物はいない。その点で珍重に値する弟子である。」との記述も見られます。
ことごとく反発する人は、現在でもいます。私は色んな面で、是々非々です。ですから、組織の中ではどちらにもつかずに中立です。こういう人は、何でもかんでも反対はしませんが、派閥を作りたい人から見ると、敵か味方か判断できず、嫌われることが多いです。
自分でも分かっているのですが、良い事は、良いし、悪い事は、悪いとしか言いようがありません。もちろん、そんな時、私を説得できるだけの材料がそろっていれば、考えを変える事も吝かではないのですが、大概の場合は、その派閥に対する利益誘導が主な目的だと思っています。
組織の一員であれば、誰々のためとか、一部の人の利益を助長させるのではなく、組織全体の事を考えてもらいたいと、思っています。
随分昔になってしまいましたが、故佐々木武先生が、私と二人でいる時に、ポツンと「人を試すような事はしてはいけない。」と言われたことがありました。私に言った分けでは無いのですが、誰の事を言ったのか、分かりませんでした。しかし、その言葉だけは、耳に残っていて、随分意味を考えた事がありました。
まだ私が20代前半の頃ですから、試されては困るのかな、とか邪推していました。
先生が言いたかったのは、親鸞聖人が書き残した『歎異抄』に、「たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」と同じ意味であったと思いました。先生を試しても何の利益も無いと思いました。学んでいるのは自分なのですから。
宰我と言う人は、頭の良い人で、弁の立つ人との評価がありますが、頭を使う方向が間違っていたのでしょう。
『君子』の在り方を孔子は説いているのに、この宰我は、どうも孔子と知恵比べをしたいように思いました。
弟子であると言う事は、学ぶために孔子の下にいる事を忘れてしまっているのでしょう。兎角自分の方が頭が良いという事を、ひけらかしているのではないのでしょうか。
であれば、さっさと、孔子の下を離れて、独立すれば良いのです。
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.