文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【176】

 今日の文字は『酒宴しゅえん』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百七十五段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 酒宴

 

☆中華屋さん風の玉子スープ どーでしょうか!?  

  1. 用意する物 (1人分) 1人分
    (1)水 250cc
    (2)ガラスープスープの素(youki)【 1/2】
    (3)しょうゆ 【少々】 
    (4)塩【 一つまみ】
    (5)こしょう 【一つまみ程度】
    (6)卵 【半分】
    ◎水溶き片栗粉
    (1)片栗粉 【小さじ1杯】
    (2)水 【小さじ1杯】
  2. 作り方
    (1)鍋に、お湯を沸かし、ガラスープ、しょうゆ、塩、こしょうを入れて味見をする。
    (2)鍋の中をお玉などでかき混ぜながら、水溶き片栗粉を加えてとろみをつける。
    (3)小さいボールなどに卵を割り入れて、お箸で溶く。
    (4)強火にかけた鍋の中をお箸でくるくるかき回しながら、溶いた卵を少しずつ鍋に入れる。
    (5)溶いた卵を全部入れてからも、10回くらいお箸で鍋をかき回してから、すぐに火を止める。
    ※味が薄い場合はガラスープの素を少し足すと良いでしょう。

☆玉子が半分だと残りますから、1個使って2人前作る方が経済的です。その場合分量は倍です。
 
 さぁ、今日の現代文は、長くてとっても時間がかかりました。

 
徒然草 第百七十五段 〔原文〕

 世には心得ぬ事の多きなり。友あるごとには、まづ酒をすゝめて、強ひ飮ませたるを興とする事、いかなる故とも心得ず。飮む人の顔、いと堪へ難げに眉をひそめ、人目をはかりて捨てんとし、遁げむとするを、捕へて、引き留めて、すゞろに飮ませつれば、うるはしき人も、忽ちに狂人となりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事の病者となりて、前後も知らず倒れふす。祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。あくる日まで頭 痛く、物食はずによび臥し、生を隔てたるやうにして、昨日のこと覺えず、公・私の大事を缺きて、煩ひとなる。人をしてかゝる目を見すること、慈悲もなく、禮儀にもそむけり。かく辛き目にあひたらむ人、ねたく、口惜しと思はざらんや。他の國にかゝる習ひあなりと、これらになき人事にて傳へ聞きたらんは、あやしく不思議に覺えぬべし。

 人の上にて見たるだに、心憂し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひのゝしり、詞多く、烏帽子ゆがみ、紐はづし、脛高くかゝげて、用意なき気色、日頃の人とも覺えず。女は額髪はれらかに掻きやり、まばゆからず、顔うちさゝげてうち笑ひ、杯持てる手に取りつき、よからぬ人は、肴とりて口にさしあて、みづからも食ひたる、様あし。聲の限り出して、おのおの謠ひ舞ひ、年老いたる法師召し出されて、黑く穢き身を肩ぬぎて、目もあてられずすぢりたるを、興じ見る人さへ。うとましく憎し。或はまた、我が身いみじき事ども、傍痛くいひ聞かせ、あるは醉ひ泣きし、下ざまの人は、罵り合ひ、諍ひて、淺ましく恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、はては許さぬ物どもおし取りて、縁より落ち、馬・車より落ちてあやまちしつ。物にも乘らぬ際は、大路をよろぼひ行きて、築地・門の下などに向きて、えもいはぬ事ども し散らし、年老い、袈裟かけたる法師の、小童の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつゝ、よろめきたる、いとかはゆし。

 かゝる事をしても、この世も後の世も益あるべき業ならば如何はせん。この世にては過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百藥の長とはいへど、萬の病は酒よりこそ起れ。憂へを忘るといへど、醉ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出でて泣くめる。後の世は、人の智惠を失ひ、善根を燒く事火の如くして、惡を増し、萬の戒を破りて、地獄に墮つべし。「酒をとりて人に飮ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」とこそ、佛は説き給ふなれ。

 かく疎ましと思ふものなれど、おのづから捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語して、杯いだしたる、萬の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入り來て、取り行ひたるも、心慰む。なれなれしからぬあたりの御簾のうちより、御果物、御酒など、よきやうなるけはひしてさし出されたる、いとよし。冬、せばき所にて、火にて物煎りなどして、隔てなきどちさし向ひて、多く飮みたる、いとをかし。旅の假屋、野山などにて、「御肴みさかな何」などいひて、芝の上にて飮みたるもをかし。いたういたむ人の、強ひられて少し飮みたるも、いとよし。よき人の、とりわきて、「今一つ、上すくなし」など、のたまはせたるも嬉し。近づかまほしき人の、上戸にて、ひしひしと馴れぬる、また嬉し。

 さはいへど、上戸はをかしく罪許さるゝものなり。醉ひくたびれて朝寐あさいしたる所を、主人の引きあけたるに、惑ひて、ほれたる顔ながら、細きもとゞりさしいだし、物も着あへず抱き持ち、引きしろひて逃ぐる、かいどり姿のうしろ手、毛おひたる細脛のほど、をかしく、つきづきし。

 

『現代文』

『世の中は理解出来ない事が多い。ちょっとした事があるたびに、とりあえず酒をすすめ、強引に飲ませる事を面白がるのは、どういう訳であろかよく解らない。飲む人の顔も、大変堪え難そうに眉をひそめ、人目を気にしながら酒を捨てようとし、逃げようとするのを捕まえて、引き留め、むやみに飲ませると、行儀のよい人も直ぐに乱れて羽目を外し、壮健な人も見ている内に病人のようになり、前後不覚になり倒れ伏す。祝い事のある日などは、驚くばかりになってしまうだろう。あくる日まで頭が痛く、食事もできず、呻きながら臥せて、生まれ変わったように昨夜の事を忘れてしまい、公私共に大事な事を欠いて、苦労する。人にこのような思いをさせる事は、慈悲もなく礼儀にも適っていない。このような辛い目に遭った人は、腹立たしく口惜しく思わないのか。もし外国にこのような習慣があると、他人事として伝え聞いたら、異常で理解出来ないと思うだろう。

 他人事と思っても不愉快だ。思慮深く、奥ゆかしいと思える人も、無分別に笑い騒ぎ、多弁で、烏帽子はゆがみ、紐をはずし、膝を高く上げ、配慮をする様子もなく、普段見る人とは思えない。女性は前髪を掻き揚げ、顔を臆面もなく出し、高らかに笑い盃を持つ手に取りつき、行儀の悪い人は肴を人の口に押し入れ、自分も食べる。酷い状況だ。声を張り上げ、歌い、舞い、年老いた法師が呼び出され、黒く汚い片肌を出し、目も当てられない仕草で身を捻じるのを、喜んでいる人もいる。嫌な感じがして癪に障る。あるいは、自分がどれほど立派であると言う事を、そばで聞くのも恥ずかしくなるほど言い、あるいは酔って泣き出し、身分の下の者は、罵り合い、争って、浅ましく恐ろしい。不名誉で、情けない事ばかりで、終には勝手に持ち帰り、縁側より落ち、馬・車から落ちるような失敗をする。物に乗らなくても、大路をよろけて歩き、築地・門の下などに向かって言う事も憚られる事をやたらとして、年老いた袈裟をかけた法師が、子供の肩を押さえて、意味不明の事を言いつつ、よろめいているのは、とても見ていられない。

 こんなことをしても、生きている間も、死後も得がある事であれば、仕方がない。この世でも過ちが多く、財を失い、病にかかる。百薬の長とは言っても、色々な病は酒が原因で起こる。さも忘れると言っても、酔っている人は、過ぎ去った辛い事も思い出して泣く。死後は人の智慧を失い、善根を焼くのは火のようなもので、悪を増長させ、全ての戒めを破り、地獄に落ちるだろう。「酒をとりて人に飮ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」と仏は説いておられる。

 このように疎ましいと思うものではあるが、自分から捨てがたい時もある。月の夜、雪の朝、花を愛で、心が穏やかで語り、酒を酌み交わすのは、何かにつけて興味をそそるものである。退屈な日に、思わぬ友が来て、酌み交わすのも心が和む。そばに寄れないような高貴な人が暖簾の中から、果物、御酒など調えて差し出されるのも、大変良い。冬、狭い所で火で物を煎ったりして、心の通った仲間と差し向かい沢山飲むのも大変良い。旅の仮屋、野山で「何か御肴みさかなは」などと言って、芝の上で飲むのも面白い。大変酒を拒む人が、勧められて少し飲むのも、至極よい。高貴な人が特別に「いま一献、お酒が減っていませんね」など言われるのも嬉しい。お近づきになりたい人が、酒に強く、すっかり懇意になれたのも嬉しい。

 とは言っても、酒好きは滑稽で罪が許されるものである。酔いくたびれ朝起きられない所に主人が来て、戸惑って、ねぼけ顔のまま、まげの紐も乱れたまま、着る物も着ず抱えて、足を引き摺りながら逃げ。着物の裾を掻き揚げる後ろの手、毛の生えた脛の細い様子は、可笑しく、酒飲みらしい。』

 

 

『酒宴』

 何とも、調子のよい言い方ですね。酒はこれこれ、こういう理由で良くない。と言いながら、最後には肯定するような、そして酒飲みを擁護する文章で締めくくっています。

 確かに、鎌倉時代の末期の酒宴の様子が、克明に書かれていて、歴史的な資料にはなるでしょうが。

 「酒は飲むべし飲まれるべからず」と聞く事があります。食前酒と言うのもありますから、食欲を増進させる効果があるようです。

 この文章の前半に書かれてあることは、私が若い頃でも変わらないと思いますので、鎌倉時代となんら人間の醜態は変わらないようです。

 最近のお酒の事情はよく解りません。私がまったくそういう席に顔を出す事がなくなりましたし、お酒を口にする事もなくなりました。

 兼好法師は、お酒についてかなり辛辣に批判していますが、最後の文章から推測すると、至って酒好きな法師に思えます。

 多分「酒は飲むべし飲まれるべからず」を守っていると思われます。

 前にも書いていますが、私の友人は酒豪と言うにふさわしい人が沢山いました。同じお酒を飲める人になるなら、酒に呑まれない人になりたいとは、思います。

 しかし、若山牧水(歌人)のように「人の世に楽しみ多し然れども 酒なくして何のたのしみ」とは思いません。