【五輪書から】何を学ぶか? |
宮本武蔵と言えば、一説に身長6尺(182cmほど)であったとされていますので、平均身長155cmから158cmの時代からすると、随分体格に恵まれた大男で、多分、映画などで見る一振りすると、節のある青竹がバラバラになったという逸話も、まんざら嘘のようには思えません。
刀を両手に持ち、自由自在に操る。これも、体格に恵まれた上、想像を絶する稽古を積み、書画彫刻を器用にこなす、武蔵ならではの、発想だったのかも知れません。ここでは、その二刀流についての概略が書かれています。
【地之巻】の構成
7. 此一流二刀と名付る事
8. 兵法二つの字の利を知る事
9. 兵法に武具の利を知ると云事
10. 兵法の拍子の事
11. 地之巻後書
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7.この一流二刀と名付ること
なぜ、二刀と名付けたかというと、昔は太刀・刀、今は刀・脇差を腰に差すことが自明であり、事細かに理由をいうまでもなく武士として当たり前のことである。この二刀の利を知らせるため、二刀一流という。
鎗や薙刀は、外物(ともの)というが武道具の一つである。自流では初心者の時から刀、脇差を両手に持って稽古させる。命を捨てる場面では、持っている道具を残さず役立たせる。道具を役立てず腰に納めたまま死ぬことは、本意ではないだろう。しかし、刀を両手で握ると、左右とも自由を奪ってしまう。鎗や薙刀は両手に持つものだが、刀や脇差は片手で持つ道具である。
刀を両手で持つと、馬上、駆け足、沼、深田、石原、険しい道、人込みなどの場所でも操作しにくい。左に弓や鎗、その他の道具を持つ場合は、片手で刀を扱う。両手で刀を持つことは本来のやり方ではない。どうしても片手でダメな場合に両手を使う事は、難しい事ではない。
初めから片手で刀を振る稽古をさせるのは、二刀を使えるようにするためである。人によっては刀が重く振れないが、なんでも初めは弓や薙刀も振り難い。馴れるに従って、力もついて扱いやすくなる。
刀は速く振れば良いのではない。詳しくは、「水の巻」で説明している。刀は広い所で振り、脇差は狭い所で振る。これが道理である。我流儀は長い物でも、短い物でも道具の長短は定めない。どちらでも勝つようにする気持ちである。
刀を二つ持つ利点は、相手が大勢の時、あるいは、立て籠る者と戦う時に良いが、詳細には書かない。一事を聞いて万事を知る必要がある。勝つための理論を体得する事によって、解ることである。
『私見』
言葉尻を捉えて言うのは、気が引けますが、昔は太刀・刀と言っておきながら、本文に入ると、今は刀・脇差がどこかに行ってしまっています。そのため、現代文として要約する時は、太刀を刀・刀を脇差に変えています。
二刀に対する利点を色々挙げていますが、空手の場合も、両手・両足・胴体・頭など、使えるところは全て武器として鍛えます。今では沖縄古武道と呼ばれている、釵・トンファー・ヌンチャクなども両手で扱うよう訓練しますが、刀程は重くはありません。(左の写真は私が使っている物で、日本空手道林派糸東流会を起こされた先代林輝男先生が設計され、明倫堂(現在の明倫産業株式会社)で造られた物です。当時は販売されていましたが、今は販売されていないようです。)
武蔵の時代は、今のように筋力トレーニングに対する知識も無かったことでしょうし、もし片手で扱えないようであれば、鍛錬が足りないと思ったのでしょう。
私も若いころは、何も知識が無く、巻き藁を突く場合も、皮がめくれるのは、鍛錬が少ないからと思っていました。高校生の頃は、家に巻き藁を立てていましたので、一日片方1000回突いていましたので、皮がめくれても仕方がない事ですね。
武蔵の言うように、道具は常に整備しておかなければなりません。空手の場合は武器と呼ばれる、正拳・手刀・裏拳・平拳・貫手・低掌(掌底・鉄掌)、足の脛、小手など武器となるべき部分については、常に鍛え続ける必要を感じています。まさに、「空手は湯の如し 絶えず熱度を与えざれば 元の水に還る」(富名腰義珍先生)ですね。
私は、空手道は、徒手空拳であると固執してきました。ですから、今まで、釵の振り方は伝えていませんでした。伝えなかったもう一つの理由は、人のいる所で練習するには危険過ぎるからです。動画ではさほど早く操作していませんが、一人で長時間振っていると握力が無くなり、釵を飛ばしてしまう事もあったからです。まだ理由があります。それは、私が空手を習った日本空手道致道会(松濤館流)で習ったものではないからです。
最近、人を選んでなら、伝えても良いのかな、と思い始めました。伝えるための条件があります。絶対如何なる場合でも、釵を使わない人でないといけません。そうなると、私が常々言い続けている、争わない空手道の意味を十分解っている人でないといけません。動画で一緒に練習しているのは、礒田正典師範です。今回は「浜比嘉の釵」で、屋比久孟伝先生から平信賢先生に伝承された型を稽古しています。動画では前半部分を掲載しました。
この「浜比嘉の釵」を稽古することによって、現在の脚色され美化された型の原点を、垣間見ることができると思います。ひたすら、打ち(投げる)、ひたすら受け、ひたすら流す。本来の型をうつ(演武する・稽古する)意味があると思います。
【参考文献】
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
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